徳川家康の側近・本多正信は本当に家康の右腕のような存在やったみたいだな
そんな正信も一度は家康と敵対したんじゃが
出戻って徳川家臣となったんじゃよ
それでは本多正信の生涯についてみていこう!
本多正信の年表
兄弟で家督争いをしていた本願寺を鎮めて混乱を避けるため
本願寺教如に東本願寺を与えたなー
本願寺を西と東に分けることで力を分散させる狙いもあるのー
本多正信の相関図
徳川家の家臣の仲で最も多い苗字は「本多姓」やな
本多家には4つの系統があって、
「本多平八郎家」、「本多作左衛門家」、「本多彦次郎家」、「本多弥八郎家」があったんじゃ
本多正信の誕生
本多正信は1538年、三河(愛知県)に本多俊正の次男として誕生しました。父・俊正は松平家に仕えていたため、正信も松平家に仕えるようになります。
桶狭間の戦いの際には、今川義元の命により織田軍を攻める家康に従い、合戦において膝に傷を負って以来足を引きずるようになったという。
正信は家康の鷹匠として仕えたみたい
流浪の日々
主君・家康は今川家から独立すると、三河統一を目指しました。ところが、三河一向一揆が勃発。徳川家の家臣の半数が一揆に加担し、正信も一揆に加担しています。半年ほどかけて家康は一揆を鎮圧し、ほとんどものは徳川家に帰参しました。ところが、正信は徳川家を出奔してしまいます。
家康は一揆に参加したことを一切咎めないで帰参を許したみたいやな
三河を出たのちは京都へと向かったといいます。やがて、畿内で力をつけていた松永久秀に仕えました。その後は、加賀(石川県)に赴き一向一揆に加担して、織田信長と戦ったとも言われています。
本願寺のつてを辿って京都に出向いたのかなー
諸国を浮浪したのちに、大久保忠世の取りなしから再び徳川家康に仕えました。そして、姉川の戦いや、伊賀越えに付き従ったとされています。
徳川家の家臣の多くは正信が帰ってきたことを快く思っていなかったんじゃ
水魚の交わり!
本能寺の変後の混乱に乗じて、家康は旧武田領で勢力を拡大しました。このとき、旧武田家臣の扱いを正信と井伊直政が担当。参謀としての手腕が評価された正信は、家康の片腕として才能を発揮していきます。
井伊直政も正信といっしょで、徳川家に仕えるのが遅かった武将じゃ
小田原征伐が終わると、正信は相模玉縄(神奈川県)に1万石を与えられて大名となります。また、関東総奉行に任じられて、江戸城改築や市街地の整備などを行いました。
そして、豊臣秀吉が亡くなると、正信は徳川秀忠に従って上田城攻めに出陣しています。その後、江戸幕府を開かれると家康の側近として活躍しました。
まとめ
本多正信は三河一向一揆の際に徳川家康と敵対。そして各地を流浪後、再び家康に仕えています。徳川家に出戻ってからは、参謀として活躍しました。
正信と家康の意見が一致しないときには、正信は寝ている振りをしたみたい
そして家康が意見を変えると、起き上がって家康を褒め称えたというよ