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[大河ドラマ・どうする家康]池田恒興(キャスト: 徳重聡)の最後はどうなった?織田信長と幼馴染だったのか? 家系図 年表 子孫 家紋 城

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する池田恒興

徳重聡さんが演じている織田信長の幼馴染ですね

徳川家康
徳川家康

池田恒興の母・養徳院は織田信長の乳母でもあるんじゃよ

ひろ
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池田恒興は本能寺の変の後に開かれた清州会議にも出席した重臣ですね

あまり目立ちませんがどのような生涯を送ったのでしょうか?

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池田恒興の年表

池田恒興の家系図

池田恒興の誕生

池田恒興いけだつねおき(演 : 徳重聡)は1536年、尾張(愛知県)に池田恒利の長男として生まれました。父・池田恒利は当初、将軍・足利義晴に仕えていましたが、後継ぎが居なかったため池田氏は織田家に仕えるようになったと言われています。また、池田恒興の母・養徳院織田信長(演 : 岡田准一)の乳母を務めました。

徳川家康
徳川家康

織田信長は赤子の頃、乳母の乳首を噛みちぎる癖があったんじゃが

池田恒興の母・養徳院乳母になってからは噛みちぎらなくなったから乳母に抜擢されたそうじゃ

父・池田恒利が早くに病死したため、母・養徳院織田信長の父・織田信秀(演 : 藤岡弘)の側室となっています。そのため池田恒興と織田信長は幼い頃から仲が良かったと伝えられています。

ひろ
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映画「レジェンドアンドバタフライ」でも

青年期の織田信長と池田恒興(勝三郎)が戯れている様子が描かれていましたね

池田恒興は織田信長に仕えて大出世

池田恒興は織田信長に幼少の頃から小姓として仕え、織田信行(織田信勝)の暗殺や桶狭間の戦い美濃攻め姉川の戦いなど数々の重要な合戦に参戦して武功を上げました。その功績により織田信長に認められて犬山城城主(愛知県)に任命されます。

ひろ
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池田恒興は桶狭間の戦いで多くの家臣が籠城すべきという中で

奇襲攻撃をすべきと進言した武将でもあります

また、長島一向一揆のときには、織田信長の長男・織田信忠のもとで戦い、それ以降は織田信忠の配下となりました。その後も織田家重臣・荒木村重が謀反を起こすと、池田恒興は織田信長の命により、荒木村重の居城・有岡城に攻めこんで、反乱を鎮圧しました。その結果、摂津(大阪府)の支配を任せられ伊丹城(有岡城)を授けられました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

池田恒興は荒木村重の家臣を

自身の与力に組み込むということもしておるんじゃよ

池田恒興の最後

主君・織田信長は天下統一の目前にあった時、本能寺で家臣の明智光秀(演 : 酒向芳)によって討たれました。この混乱を受けて、池田恒興は豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)と合流し、山崎の戦いで明智光秀を討伐することに貢献しました。明智討伐の功績により清洲会議に出席する資格を得ました。そして、三法師・織田秀信(織田信長の孫)を後継者に掲げる豊臣秀吉を支持しました。これ以降、池田恒興は豊臣秀吉に臣従することとなります。

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清州会議での領地の再分配で摂津12万石を手に入れています

賤ヶ岳の戦いには参加していなかった池田恒興ですが、合戦後に美濃(岐阜県)13万石の大名としての地位を授けられました。豊臣秀吉徳川家康(演 : 松本潤)と対立した小牧長久手の戦いでは、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次猛将・森長可と協力し、徳川本陣に奇襲攻撃を試みました。ところが、その試みは失敗に終わり、池田恒興は鉄砲によって討ち死にしました。このとき池田恒興の長男・池田元助もまた討ち死にしています。

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池田恒興を討ち取った永井直勝

作家の三島由紀夫や狂言師の野村萬斎の先祖と言われています

池田恒興の子孫

池田恒興には4人の息子と5人の娘がおります。息子たちは池田元助、池田輝政、池田長吉、池田長政の4人です。

長男の池田元助は池田恒興とともに小牧・長久手の戦いで亡くなりましたが、その子である池田由之が後を継ぎ、備前(岡山県)にて天城あまき池田家として幕末まで存続しました。また、池田由之の孫・熊子は赤穂事件で有名な大石内蔵助の生母として知られています。

ひろ
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歴史を調べると色々なところで繋がっているのがおもしろいですよね

次男の池田輝政は徳川家康の次女・督姫との結婚により大いに出世し、播磨姫路(兵庫県)の52万石の大名となりました。輝政はこの時期に姫路城を大規模に改修し、それにより名を馳せています。池田輝政の孫である池田光政の代に岡山藩に転封となり、池田宗家はそこで幕末まで続きました。

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池田輝政が大した功績を挙げてもいないにも関わらず、大大名となっていることを

福島正則は「わしは槍1つで出世したが、おぬしはイチモツだけで出世した」となじったといいます

三男の池田長吉は徳川家康に従い、会津征伐関ヶ原の戦いでの活躍が評価され、因幡鳥取6万石を与えられました。しかし、後に備中松山藩(岡山県)に転封されるも、子供がいなかったために断絶となってしまいます。

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村を治める長にはなったとも言われています

四男の池田長政は幼くして片桐氏の養子となり、備前下津井(岡山県)3万2千石を与えられました。以降、池田宗家の家老としての役割を果たしながら、幕末までその家系を継続しました。

一方、恒興の娘たちは豊臣秀次浅野幸長織田勝長森長可といった人々に嫁ぎました。特に、森長可に嫁いだ娘・せんは武道の訓練を受け、200人もの鉄砲隊を指揮したと伝えられています。

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池田恒興は子孫繁栄という点では

非常に成功していますね

池田恒興の家紋

池田恒興の家紋は「揚羽紋」と呼ばれる家紋です。この家紋は武家の頭領として君臨した平家と同じ家紋です。