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[大河ドラマ・どうする家康]柴田勝家(キャスト:吉原光夫)はなぜ豊臣秀吉と賤ヶ岳の戦いをしたのか?お市との仲は? 年表 子孫 家紋 城

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する柴田勝家

吉原光夫さんが演じている織田信長の重臣ですね

徳川家康
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柴田勝家は織田信長に最も忠誠心があった武将であるな

そのため、豊臣秀吉に織田家の覇権を握られたときは悔しかっただろうな

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柴田勝家は清州会議の後にお市と結婚しましたが

その結婚生活はどのようなものだったのでしょうか?

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柴田勝家の年表

柴田勝家の誕生

柴田勝家(演:吉原光夫)は1522年頃、尾張(愛知県)に柴田勝義の子として生まれました。柴田家は名門・斯波しばの一族と言われることもあり、また尾張の土豪とも言われています。

織田信長(演:岡田准一)の父・織田信秀(演:藤岡弘)の頃から織田家の家臣として仕えています。そして、織田信長が家督を継いだ際には、すでに織田家の重臣という立場にありました。

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柴田勝家の幼名は「権六」で

成長してからも通称は権六でした

柴田勝家は織田信長の敵だった!?

柴田勝家は織田信秀の死後、織田信長の弟・織田信行(織田信勝)の家老となりました。当時、織田信長は「大うつけ」として知られていましたが、一方で、織田信行は有能さと礼儀正しさから評価されていました。

徳川家康
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織田信長と織田信行は同じ母・土田御前の子じゃが

母の土田御前は織田信行のことを溺愛していたようじゃ

このため、柴田勝家を含む織田家の重臣たちは、織田信行を後継者にし、織田信長の排除を画策しました。1556年、織田家内部の紛争である「稲生の戦い」が勃発。柴田勝家は織田信行派の家臣と共に、織田信長が築いたとされる名塚城を攻撃しました。しかしながら、人数で上回るにもかかわらず、柴田勝家らは敗北しました。

その後、柴田勝家らは織田信長に謝罪し、忠誠を誓って許しを得ました。しかし、織田信行は改めて織田信長の暗殺を企てました。既に織田信行を見限っていた柴田勝家はこの情報を織田信長に報告し、織田信長は織田信行を騙し清洲城におびき寄せ、そこで殺害しました

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柴田勝家は織田信長の家臣となりましたが

はじめのうちはあまり信頼されていなかったのか

桶狭間の戦い美濃攻めでは登用されていません

柴田勝家は鬼柴田

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柴田勝家といえば「鬼柴田」で猛将ですが

一躍柴田勝家の名前が有名になった出来事を紹介します

1570年、近江(滋賀県)の長光寺城に籠城していた柴田勝家は、六角丞禎ろっかくじょてい(六角義賢)の攻撃で水が絶たれ、貯水のかめも枯渇寸前となりました。しかし、柴田勝家は大胆な策を打ち出しました。柴田勝家は自身で残りの水が入った甕を割り、「我々が敵を打ち倒さなければ、この城で死ぬしかない。水が土に還るように、私たちも何もせずに籠城し続ければ土に還ってしまう」と宣言しました。

兵士達はこの絶体絶命の状況から奮起し、出陣しました。その結果、柴田軍は逆襲に成功し、大勝利を収めました。この事件以来、柴田勝家は「瓶割り柴田」という異名で呼ばれるようになりました。

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ちなみに敵の六角丞禎(六角義賢)は不死身で

最後まで織田信長に抵抗した武将でした

柴田勝家と豊臣秀吉との覇権争い

柴田勝家は織田信長の第一の家臣として重用され、越前(福井県)49万石の大名となりました。しかし、織田信長が家臣の明智光秀(演 : 酒向芳)により討たれる本能寺の変が勃発。柴田勝家は北陸で上杉方と戦をしていたために出遅れてしまい、謀反人・明智光秀は豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)によって討たれてしまいました。そのため、織田家の覇権は次第に豊臣秀吉によって握られます。

さらに織田信長の後継者を決める清洲会議にて、柴田勝家は織田信長の三男・織田信孝を擁立しますが、豊臣秀吉は織田信長の長男・織田信忠の長男・三法師を擁立しました。これにより豊臣秀吉がさらに織田家中で覇権を握るようになり、柴田勝家の織田家での立場がゆらぎ、面目丸つぶれでした。

柴田勝家とお市の仲

清州会議にて織田信長の領地が再分配され、豊臣秀吉は旧領である近江長浜(滋賀県)を柴田勝家に譲り、新たに河内(大阪府)、丹波(兵庫県)、山城(京都府)、播磨(兵庫県)を手に入れました。それに対し柴田勝家が得たのは越前(福井県)と近江長浜のみで、この領地分配により豊臣秀吉が優位に立ち、織田家内での立場の差が明らかとなりました。

しかし、その状況を柴田勝家が黙って受け入れるはずはありません。豊臣秀吉は、柴田勝家と織田信長の妹・お市の方(演 : 北川景子)との結婚を認めることで彼の不満を抑え込みました。

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ドラマなどでは豊臣秀吉の知らないところで結婚したと描かれていますが

実際は豊臣秀吉が仕組んだようですね

伝えられるところによれば、柴田勝家とお市の関係は良好だったとされます。そのためか、豊臣秀吉が柴田勝家との戦を予期して勢力を拡大する一方、柴田勝家はお市との新婚生活に喜びを見つけていたのか、軍事力を充実させることができず、賤ヶ岳の戦いで敗れてしまいました。

結局、柴田勝家とお市の結婚生活はわずか7ヶ月で終わり、その子供たちである茶々、初、江北ノ庄城から避難させた後、自害しました。

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柴田勝家の辞世の句では

自身の名を大空に知らしめるほどの偉大な大名となりたかったと遺しています

柴田勝家の子孫

織田信長が存命の頃、柴田勝家は合戦に集中するために妻を娶らなかったと伝えられていますが詳細は不明です。そのため、正式に妻となったのはお市の方が初めてでした。

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実子がいたとかいないとか

詳細はよくわかっていません

柴田勝家は家系を残すために親族から養子を迎えたと言われています。それらは柴田勝春柴田勝政柴田勝豊柴田勝敏、そして佐久間勝之でした。

柴田勝春は柴田勝家の甥で、賤ヶ岳の戦いの際は幼く、北ノ庄城から逃れました。その後、その子・弥左衛門は徳川義直(尾張徳川藩祖)に仕え、その子孫は筑後柳川(福岡県)の立花家に仕えたと伝えられています。

柴田勝政も甥であり、賤ヶ岳の戦いで討死しました。柴田勝豊もまた甥でしたが、柴田勝家との不和により離反し、豊臣秀吉に仕えましたが、賤ヶ岳の戦いを前に病死しました。

柴田勝敏は柴田勝家の実子あるいは甥で、通称は柴田勝家と同じ権六といいます。賤ヶ岳の戦い後、捕らえられ斬られたと言われています。

佐久間勝之もまた甥であり、柴田勝家の養子となり、後に佐々成政の婿養子となりました。佐々成政が豊臣秀吉の配下となった後、主君を北条家や蒲生家など転々とし、最終的に徳川家に仕えて信濃長沼藩(長野県)の初代藩主となりました。しかし、佐久間家は4代続いた後、改易となりました。以降、彼らは幕臣として存続したようです。

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柴田勝家の血をひくものはいないようですね