南部晴政は南部家の勢力を最大にした武将やな
広大な領土を築いたんじゃが
後継者問題を残して亡くなってしもうたんじゃ
南部家はお家騒動が耐えなかったみたい
それでは南部晴政の生涯をみていこう!
南部晴政の年表
晴政は外交面でも優れていて、織田信長に駿馬と鷹を送ったみたい
信直も秀吉殿に接近するために
兵を差し出しておる
南部晴政の相関図
南部家での家督争いに乗じて津軽為信は独立を果たしたんやなー
家督争いは一家の力を一気に弱めてしまうじゃ
南部晴政の誕生
南部晴政は1517年、南部安信の長男として誕生。父・安信は津軽地方の基盤を固めた武将であり、弟たちと協力して南部家の支配を強化しました。こうしたことから、晴政は若くして数々の合戦に出陣していました。
家臣に裏切られて居城の三戸城を焼かれたみたい
南部家の最大版図!
1539年、晴政は上洛して12代目将軍・足利義晴と謁見し、その際に「晴」の字を拝領しています。つまり、晴政は幕府から南部家の惣領として認められました。その翌年には、敵対勢力である戸沢家や斯波家を撃ち破り、南部家の家督を継ぎます。
惣領とは、跡取り、家督相続予定者のことやな
奥州には強力な武将が存在し、安東愛季は晴政の強力なライバルでした。愛季は何度も何度も晴政の領土に侵攻。これに対して晴政は南部一族の北氏、南氏、東氏と強力して応戦しました。さらに、養子の南部信直や九戸政実の協力を得て安藤軍を追い返しました。
安東家は平安時代に中央政府に対して反旗を翻した安倍貞任の末裔やな
安東家を撃退した晴政は南部家の領土を最大とし、青森県全域と岩手県中央部に及びました。広大な領土から、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われ、旅で空の月が三日月の頃に南部領に入ると、連日歩いても領土を通り抜けるのに満月になるまでの日数がかかるということを表しています。
晴政は「政」の字を一族に与えるなどして
主従関係の強化を図ったんじゃ
お家騒動!!
晴政は男児に恵まれず、叔父・石川高信の息子である南部信直を養子に迎え、自身の長女を娶られせいました。ところが、晴政に実子・晴継が生まれてしまいます。
田んぼを通りかかった時、突如田植えをしていた娘が「殿様にお祝い申し上げます」と泥を晴政の服に塗りつけたよ
これを見た晴政は「めでたいことである」といって、この娘を晴政の側室にしたというよ
この娘が晴継を産んだんじゃな
晴政は養子を迎えていたにも関わらず、実子を跡継ぎにしようとし、信直との間に確執が生まれるようになってしまいます。この噂を聞きつけた津軽為信は、次々に南部領に侵攻し始め、信直の父・石川高信を討ち取っていました。この時に、晴政は信直との対立から援軍を送っていません。そのため、晴政と信直の確執は深まり、毘沙門堂への参拝帰りの信直に襲撃を仕掛けています。こうして、信直との溝を埋めれないまま、晴政は亡くなってしまいました。
晴政が亡くなった後は、晴継が跡を継いだけど
すぐに亡くなってしまったよ
信直は晴政が亡くなるとすぐに晴継を暗殺したようじゃ
まとめ
南部晴政は若い頃から戦に明け暮れ、南部家の最大版図を築いた武将です。ところが、南部家の跡継ぎ問題を残したまま晴政は亡くなってしまいました。
ある時、晴政の刀が盗まれたから警備のものが自らの処分を願い出たけど、
晴政は「ここで刀を盗みに来るのは、盗人の仕業ではない。若い侍あたりが魔が差したのだろう。盗んだ刀で励めばそれでよい。武士たる者が金銭を盗んだとなれば処罰するが、この件は不問とする」といって許したそうだよ