安国寺恵瓊は毛利家に仕えた外交僧だよなー
恵瓊は饒舌で外交がうまかったぞ
関ヶ原の戦いでは主君である毛利輝元を西軍の総大将にしたんじゃ
それでは安国寺恵瓊の生涯をみていこう!!
安国寺恵瓊の年表
僧侶の身分のまま城持ち大名まで出世したのは
恵瓊ただ1人だなー
恵瓊には実力があったからのー
また頭がいいせいか、人より頭が大きくて「鉢ひらき」とからかわれておった
安国寺恵瓊の相関図
恵瓊は仲がよかった石田三成にお願いされて
主君である毛利輝元を関ヶ原の戦いの総大将にしたんやなー
三成に人望があれば、輝元を総大将とせんでもよかったんじゃが
三成には人望がないからのー
安国寺恵瓊の誕生
安国寺恵瓊は1539年、安芸(広島県)に武田信重の子として生まれました。
安芸武田家は武田信玄が生まれた甲斐武田家の分家だよ
恵瓊の生まれた安芸武田家は名門家でしたが、恵瓊が幼い頃に滅びてしまったため、安国寺に預けられていました。恵瓊は毎日安国寺で修行を行っておりましたが、時々東福寺にいくことがありました。
そのときに毛利家の外交僧である東福寺の僧が恵瓊の実力を見出し取り立て、東福寺の僧にしました。そして恵瓊は東福寺の住職となったのちに、毛利家の外交僧にまで出世を果たします。
安芸武田家は応仁の乱でも活躍した室町幕府に仕えた名門家だったんじゃが、
毛利元就に攻め込まれて滅びたんじゃ
毛利家の外交僧として活躍
将軍足利義昭が織田信長によって京都から追い出されると、義昭は毛利家を頼ります。そのため、毛利家と織田家との間で争いが勃発。そこで恵瓊は争いを止めるために、信長の家臣である豊臣秀吉に交渉しました。
このとき恵瓊は持ち前の口のうまさを生かして、室町幕府を守る口実で毛利の勢力を拡大しようと企んでおりました。ところが秀吉の「人たらし」ぶりに魅了されてしまいます。
秀吉さんに魅了された恵瓊は毛利家の家臣にあてて
「信長の代、五年三年は持ちたるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いたみたい。
信長はそのうち謀略により命を落とすから、豊臣秀吉が台頭してくるということやで
わしの台頭だけでなく、
信長公が謀反によって横死することを予言しているところがすごいんじゃ
秀吉の器を見出す
恵瓊は秀吉と謁見して以来、秀吉の器量と将来性を見抜いて接近します。そして、九州攻めや小田原攻めに参戦することにより、伊予(愛媛県)6万石の大名にまで出世します。
僧侶は俗世を離れた存在とみなされておったから、
外交にはうってつけだったんじゃろなー
一国の大名にまで出世を果たした恵瓊でしたが、毛利家に仕え続けていました。また秀吉の側近としても働いいたために、秀吉に進言して主君である毛利輝元を広島120万石の大名に仕立てることに成功。
秀吉さんに接近しながら毛利家との関係も持続させていたなんて
並の心臓の持ち主ではないなー
秀吉が亡くなると徳川家康が動きはじめ、再び天下が動き始めました。恵瓊は石田三成と仲が良かったために、毛利輝元を西軍の総大将にすることを約束します。
ところが関ヶ原の戦いで西軍は敗れてしまい、恵瓊は輝元を西軍の総大将に仕立てた責任を取らされてしまいます。そして石田三成や小西行長とともに京都の六条河原で斬首されてしまいました。
恵瓊は斬首されることを恐れて逃げ惑ったというぞ
まとめ
安国寺恵瓊は一介の寺の子から持ち前の饒舌さを武器に出世を果たし、一国の城主にまで上り詰めた人物でした。ところが、関ヶ原の戦いで主君毛利輝元を総大将に仕立てた責任を取らされ、切腹することになってしまいました。
恵瓊は毛利家のために秀吉さんに接近して領土拡大に尽力をつくしたけど、
毛利輝元を総大将にしてしまったから最終的に、毛利家の勢力は小さくしてしまったんやなー
毛利家にとって善なのか悪なのか、甲乙つけがたい人物やなー