小田原攻めは秀吉さんが関東の北条家を征服して
天下統一の総仕上げとした合戦やな!
小田原攻めは合戦とはいっても実際に刃を交えることはなかったんじゃ
「戦わずして勝つ!」やなー
どうやって秀吉さんは勝ったのかみてみよう!
小田原征伐の背景
1587年、豊臣秀吉は九州の島津家を討伐することに成功し、西日本を手中におさめました。ついに残る敵は、関東の北条家と奥州の伊達家のみとなっていました。
西日本を掌握した秀吉であっても、北条家を落とすのは簡単ではありません。なぜなら、徳川家康の次女督姫は北条氏直に嫁いでおり、北条家と徳川家が同盟関係にあったからです。
そのため秀吉は家康の動きにも警戒していました。秀吉は北条家と直接戦いたくなかったのです。
そこで秀吉は北条氏政、氏直親子に何度も上洛するように書状を送ります。しかし氏政、氏直は上洛することはありませんでした。
北条家は関東では名門家だったから農民あがりのわしに頭をさげたくなかったんじゃろな
プライドが高いことが仇となったわい
さらに秀吉が惣無事令を発令しているにもかかわらず、北条家は秀吉傘下の真田家に侵攻。これに怒った秀吉は北条家へ討伐することを決めます。
惣無事令とは「大名間で許可なく合戦をするな」という命令だね
戦国時代では大義名分なしに他国を攻め込むことは暗黙のうちに禁止されておった。
じゃから「北条家が上洛しないこと」と「惣無事令を破ったこと」を大義名分としたんじゃ
戦わずして勝つ!!
1590年、しびれをきらした秀吉は豊臣配下の大名に小田原征伐を命じました。そこには徳川家康、上杉景勝、毛利輝元などの有力武将がおり、豊臣軍の全勢力は20万を超えたともいわれています。
それに対して北条家は5万ほどしかいませんでした。そこで北条家は小田原城に籠城することに決めます。
というのも小田原城は武田信玄や上杉謙信でさえも落とせなかった天下の名城で、大量の備蓄があったからです。それに北条家は同盟を結んでいる家康や東北の伊達政宗が味方になってくれると期待していたのでしょう。
北条家は数々の名将を返り討ちにしてきた小田原城を信じ見込みすぎたんじゃな
そのような事情を理解していた秀吉は小田原城を簡単に落とすことができないと考えていました。そこで、小田原城の近くに即席の城石垣山城を築き、優雅にお茶会や能楽を楽しみます。
しかもこのことを逐一北条家に伝えさせて、籠城している小田原城内の家臣たちを混乱させました。
さらに秀吉は北条家傘下の関東の支城を次々に陥落させ、北条家は100日あまりの籠城後、降伏。氏政と弟の氏照が切腹し、氏直は高野山に追放されました。
関東の支城で唯一忍城だけは陥落しなかったんだよ
この城は石田三成が攻めたんだけど、守りがかたすぎて落ちなかったんだ
家康による関東支配
北条家がいなくなった関東地方は、秀吉の命により徳川家康が支配することになりました。これは「秀吉が家康のことを恐れていたから」といわれています。とはいえ家康は江戸に拠点をおき、日本有数の都市に成長させました。
徳川家古来からの土地である三河や岡崎を離れさせることで国力を削ぐ狙いもあったんじゃ
また北条家と同様に秀吉に従っていなかった伊達政宗は小田原征伐中に秀吉に従うことを決めています。こうして秀吉は天下統一を成し遂げました。
農民から天下統一を成し遂げた!
戦国時代だからこそ成り上がれたよな!
まとめ
小田原征伐によって100年間続いた北条家は滅びました。また豊臣秀吉は無血で小田原城を開城したことにより、国力を保ったまま天下を治めることができました。
北条家は戦国時代とともにあらわれて戦国時代とともに消えていった一族といえるなー