好きな戦国武将ランキングで上位に入ることが多い伊達政宗!!
オシャレでかっこいい武将だよな!
政宗はかなりの野心家でな
わしが小田原城を落とすまで天下を狙っておったんじゃ
「もっとはやく生まれていたら天下をとれた」なんてよくいわれるもんな
それでは伊達政宗の生涯をみていこう!!
伊達政宗の年表
政宗が生まれた1567年は真田幸村や立花宗茂などの有名武将が生まれた年やで
花の67年といってもいいな
政宗は70歳まで生きたんか
晩年は仙台藩の基礎を作ったようじゃな
伊達政宗の相関図
母に嫌われていたのは辛かっただろうな
政宗はわしがなくなると、すぐに家康に寝返ったんじゃな
とはいえ野心家ゆえに家康からは危険がられたみたいじゃ
伊達政宗の誕生
伊達政宗は1567年、出羽(山形県)に伊達輝宗の子として生まれました。
伊達政宗といえば、右目に眼帯をしている姿で有名です。これは政宗が2歳の時に疱瘡(天然痘)という病気にかかってしまい、右目の視力を失ってしまったからです。
当時疱瘡にかかってなくなる人が多かったみたいだ
政宗が助かったのは奇跡だったかもしれないな
さらにこのことで母義姫は顔の醜い政宗を遠ざけ、弟の小次郎ばかり可愛がりました。そこで政宗は側近である片倉小十郎に短刀で政宗の潰れた目をえぐりださせ、みごとにコンプレックスを絶ちきります。
これ以来政宗は独眼竜といわれるようになりました。
小十郎は生涯政宗に忠誠を尽くす武将なんじゃ
ときには政宗の男色相手もしたというぞ
奥州を平定!!
政宗の戦での活躍は15歳の初陣からはじまり、戦での活躍が勇ましく18歳の時には父輝宗から家督を譲り受けます。
政宗が家督を譲り受けたのは1584年で本能寺の変の2年後
家督を継いだ翌年、父輝宗が畠山義継に拉致され亡くなってしまいます。そこで政宗は畠山領に侵攻し、人取橋の戦いが起きました。畠山家は会津の蘆名家と協力しており、政宗は敗れてしまいます。
ところが翌年政宗は軍を立て直すと畠山家を滅ぼします。
政宗が急に頭角を表したから東北地方の大名は恐れて包囲網を形成したんじゃろな
信長公のときと同じことじゃ
しかしこの直後、庄内地方の領土拡大を巡って、政宗は叔父の最上義光と敵対関係に陥ります。さらに政宗の家臣が義光に寝返り、最上家と伊達家の同盟関係は完全に破綻しました。
また最上家、大崎家、蘆名家の奥羽の3大名と常陸の佐竹家が伊達包囲網の連合軍を形勢し、政宗の敵となったのです。
この状況に母義姫は兄である義光を説得し、なんとか政宗と義光との衝突を避けました。
義光の離脱により伊達包囲網は崩れたので、政宗は摺上原の戦いで蘆名家を滅亡に追い込みました。家督相続をしてからわずか2年で、政宗は奥州平定を果たしたのです。
政宗が「もう少し早く生まれていたら天下を取れたのに」
という気持ちはよくわかるな
田舎者じゃない!?オシャレな大名!!
政宗は奥州(東北地方)の出身であったので、京都に上洛するときにはかなりばかにされたそうです。そんな偏見を振り払うために政宗は派手な衣装でセンスを見せつけました。
特に政宗の派手なファッションが
「伊達メガネ」
などのオシャレを意味する伊達という言葉を生んだとされています。
政宗が語源の言葉なんだな
戦国時代にできた言葉は結構多いよな
秀吉が天下統一のために北条家の小田原城を攻め込んでいる時、政宗は北条家と同盟をむすんでおり抵抗するか秀吉に従うか最後まで悩んでいました。しかし、秀吉の圧倒的な兵力をみて抵抗するのを諦めて、秀吉のもとへ出向くことを決意します。
とはいえ秀吉の元に出向くにはあまりにも遅すぎたために、秀吉はかなり激怒します。そこでなにか変わったことをしないと秀吉に自害を命じられると思った政宗は白装束に十字架を背負って出向いたのでした。
これにはさすがの秀吉も面白がり、政宗を許したといわれています。
実をいうとな
政宗が小田原攻めで従ってくれて、
東北攻めをする手間を省けてたすかったんじゃ
また政宗は秀吉に要請されて朝鮮出兵をすることになりました。
朝鮮出兵では東日本の大名たちは一度京都に集まります。その大名行列を一目みようとたくさんの人が集まっており、政宗は京都人の目を引く衣装にしようとしました。
政宗たちは下の写真のような派手な黄金の帽子をかぶった衣装でした。
その後の朝鮮出兵では伊達軍は主力部隊ではありませんでした。とはいえ物資補給軍としてよく働き、派手な衣装で政宗軍が働いているのをアピールしたといいます。これにより、小田原城での遅参や、秀吉への謀反の疑いなどをはらすことができたといいます。
今でも伊達者なんてことばを使うもんなー
オシャレさに人気武将政宗像ができあがったんだろうな
まとめ
伊達政宗は若くして領地を次々に拡大し、奥州筆頭までのぼりつめます。ところが生まれるのが遅かったせいで、天下をとることができなかった武将でした。
江戸幕府が開かれてからも政宗はいつかは天下をとると企んでおり、自国での政治に力をいれたり、家臣支倉常長をローマに派遣したり、国力を増強しました。
政宗はローマなどに遣いをだしたことで
世界の人には奥州王として知られていたみたいやで