戦国時代は諸説あるけど
応仁の乱から始まったとされているよなー
室町幕府は応仁の乱によって衰退してしまい、
全国各地に戦国大名が登場したんじゃ
どうして応仁の乱が起きてしまったんだ?
その理由を見ていこう!
応仁の乱とは?
室町幕府8代目将軍足利義政は政治に対する関心がなく、早く将軍を引退して芸術の世界に浸りかたったようです。そこで子どもに恵まれなかったため、義政は出家していた弟義視を次期将軍に指名。
ところが、義政が義視を将軍に指名した後に、妻である日野富子が義政の息子義尚を生んでしまいました。
義政は富子に頭があがらず
実質的な幕府の権力は富子が握っていたんじゃ
義政は慈照寺銀閣を建てた人物やな
将軍足利義政から将軍に指名された弟の義視と幕府の実質的な権力を握っている妻の日野富子が指名した息子の義尚が対立。
義視は管領職を担っていた細川勝元を味方につけ、富子は勝元に匹敵する実力者山名宗全を味方につけました。
さらにこの対立に便乗して、有力守護大名である畠山家と斯波家が対立に参戦。両軍あわして実に27万人もの兵が京都に集まったといいます。
日野富子の息子への愛が日本を動かしてしまったんじゃな
戦国時代へ突入!!
有力大名が京都に集結して起こった応仁の乱はすぐには終わらず、何年間も続きました。合戦が長期化したことを懸念した山名宗全は細川勝元に停戦の要求をするも、拒否されてしまいます。
その結果合戦がずるずると続き、総大将である細川勝元と山名宗全が亡くなっても合戦は終わりませんでした。
結局義政が将軍職を義尚に譲ったことで、西軍の有力武将大内政弘が撤退すると、11年続いた応仁の乱は終わりを告げました。
応仁の乱で京都の町は焼け野原になって、幕府の権威は地に落ちて、
なんにもいいことがなかったな
応仁の乱が終わると、幕府の権威がなくなった日本は戦国時代へと突入。実力があるものが弱いものを蹴落としてのし上がることのできる下剋上の時代となります。
下剋上って「下が上に剋つ」って書くよな
まさに「人よむなし応仁の乱」じゃな