武田信玄と上杉謙信が5回も死闘を繰り広げた川中島の戦い
今回はもっとも合戦が激しかった第4次川中島の戦いについて紹介するよ
川中島の戦いは遂に決着がつかなった死闘じゃ
武田も上杉も家臣を失ったのに悔しいのー
強い武将同士で戦うと被害が大きいからこそ
みんな同盟を結んでいるんだろうな
合戦の背景
川中島の戦いが起きた原因は諸説あります。1つは川中島が川の合流地点となる肥沃な土地で、交通の要衝となっていたため、武田信玄と上杉謙信もこの地を巡って争った説。また、北信濃(長野県)の領主であった村上義清は信玄に追われ、越後(新潟県)の謙信のもとへ逃亡していました。義にあつい謙信は義清に代わって信玄を討つ決意をしたといいます。
村上義清は信玄に2回も勝利した名将だよ
信玄と謙信が川中島で顔を合わせたのは1553年。その後1555年、1557年と計3回に渡って対峙していますが、互いの力が拮抗していることを自覚していたのか、終始様子見で終わりました。
信玄公と謙信公は互いを良きライバルと認めていたようじゃしなー
決戦!!第4次川中島の戦い
将軍から関東管領に任命された上杉謙信は武田信玄を討つべく、1万3千の兵を率いて妻女山に陣を敷きました。対する武田信玄は謙信の動きを聞きつけると、2万の兵を率いて茶臼山に陣を敷きます。
これまでの戦いは膠着状態が続いておったが
今回はこの戦いで決着をつけようとしていたみたいじゃ
信玄は軍師・山本勘助に膠着状態を解く作戦を考えさせます。このときに勘助が思いついたのがキツツキ戦法です。これは武田軍が二手に分かれて謙信のいる妻女山に攻撃を仕掛けるという戦法でした。
ところが、軍神・謙信はこの作戦を見事に見破り、防御が手薄となった武田本陣へ攻め入りました。上杉軍の猛攻により信玄の弟・武田信繁や山本勘助が討ち死にしてしまいます。そして、謙信は単騎で武田本陣に斬り込み、信玄の首を討ち取ろうとしました。しかし、信玄が軍配でなんとか防ぎ、事なきを得ます。
信玄と謙信の有名な一騎討ちだな
これが本当にあったのかは後でみていくよ
キツツキ戦法を見破られ、窮地に陥っていた武田軍もなんとか形成を立て直し、上杉軍を挟撃します。そのため謙信は撤退を命令し、熾烈な第4次川中島の戦いは幕を下ろします。
謙信公が撤退し、信玄公は勝鬨をあげたぞ
戦国史上もっとも謎に満ちた戦いといわれるのはなぜ?
川中島の戦いは非常に知名度の高い戦いにも関わらず、その実態がほとんどわかっていません。この戦いに関する一次資料がほとんど存在せず、通説では5回の合戦があったとされているものの、本当は2回だけだったと主張する学者もいるほどです。
武田方も上杉方も戦ったけど、勝敗がつかなかったから記録を残さなかったのかもしれないなー
川中島の戦いにまつわる謎を2つ紹介していくよ
一騎討ちはあったのか?
武田軍のキツツキ戦法を見破った謙信が武田本陣まで攻め入り信玄を斬りつけたが、信玄は軍配で刀を防いだという伝説があります。この説が生まれたのは、戦国最強の武田騎馬隊を率いた武田信玄でさえ、「上杉謙信のことは日本無双の武将」と評価していたためです。そのため、信玄は謙信との直接対決を避け、睨み合ったまま撤退することを繰り返していました。ところが、謙信はこのことに腹を立て、戦いから逃げられないように謙信が斬り込んだといわれています。
総大将が敵陣に斬り込むことはありえないなー
どちらが勝利した?
結局どちらが勝利したかはわかっていません。武田軍の死者数は4000人といわれ、軍師・山本勘助や信玄の弟・武田信繁など武将クラスも討ち死にしています。一方、上杉軍は死者数3000人ですが、武将クラスは亡くなっていません。
犠牲者の数では謙信の勝利ですが、川中島の戦いで先に撤退したのは上杉軍です。そのため、信玄は北信濃の土地を手に入れることに成功しました。ただ、謙信は土地の所有を重視しておらず、義のために戦ったため、何をもって勝敗を判断するのか難しいところです。
謙信は生涯何回も合戦を行ったけど
義のために戦ったから領土は増えなかったんだよ
2人は互いに尊敬しあっており
謙信公は信玄公が亡くなったことを知ると、ひどく悲しんだそうじゃ
まとめ
12年にも及ぶ長い川中島の戦いは決着のつかないまま終わってしまいました。名将同士の歴史に残る名勝負でしたが、武田、上杉は大きな代償をはらってしまいます。この2人が合戦を繰り広げているうちに尾張(愛知県)の織田信長は着々と天下統一への準備を進めていました。
もし、信玄と謙信が同盟を結んで信長に対抗していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
実際、信玄や謙信は上洛の途中で亡くなってしまっているもんなー
織田軍は上杉軍と手取川の戦いで戦ったが、惨敗じゃったわ