戦国時代には歴史を変えたたくさんの英雄が生まれた時代である一方
たくさんの悲劇に苛まれた時代でもあるなー
わしらは天下統一を目指して
合戦のない世の中を作ろうとしたんじゃよ
合戦も酷いけど
その後の乱取りがとても悲惨だったみたい
乱取りとは?
戦国時代の合戦は農村地帯や城下町で戦闘を繰り広げられることもあり、その時には民間人も巻き込まれてしまいました。基本的には、民間人を巻き込んでの戦は避けるべきものであり、市民には危害を加えてなりません。
ところが合戦時、一般兵による略奪行為を大名たちは黙認し、彼らへの褒美のようにとらえているものもいました。このような行為を乱取りまたは乱妨取りといいます。
略奪行為は金品や食料だけでなく
子どもや女性の誘拐もあったみたい
とはいえ、略奪をする足軽の方にも言い分があります。合戦に出陣させられた足軽たちは食糧や装備を自分たちで賄わなければなりません。しかし、合戦の期間は予想しづらく、食糧を携帯する量にも限りがあります。そのため、足軽たちは仕方なく食糧を現地調達するという名目で略奪行為を行っていました。
合戦に参加する足軽は農民であることが多く
お金持ちではないからたくさんの食糧を用意できんのじゃ
また、足軽たちにとって乱取りは稼ぎの場であり、金品や家財、あるいは人身売買を目的とした人さらいも公然と行われました。大名たちもこうした行為を罪には問わず黙認し、ある種の褒美として士気を保つ効果を狙っていました。
戦国時代には乱取りといわれていて
第二次世界大戦の頃には大虐殺といわれ、戦争にはつきものなのかもしれないな
戦国のゲルニカ
乱取りの様子を示すもっとも有名な絵図が大坂夏の陣図屏風です。これは「戦国のゲルニカ」といわれ、逃げ惑う人や連れ去られ暴行を受ける女性の様子が生々しく描かれています。
本家の「ゲルニカ」はピカソが描いた壁画で
都市への無差別攻撃を題材としているよ
大坂夏の陣図屏風は筑前初代藩主の黒田長政が描かせたものであり、戦国時代最後の戦いの激烈さと戦争の悲惨さを描き、数ある日本の合戦図屏風の中でもかなり有名です。というのも、合戦図屏風は大名や武将たちの勇ましい姿を後世に残すものですが、この屏風は逃げ惑う市民の様子まで描いているからです。
それではこの合戦図屏風を詳しくみていこう
大坂城が落城し徳川幕府の勝利が決定すると、徳川軍の一般兵たちは大坂の市民に対し乱取りをはじめました。上の絵は徳川軍が逃げ惑う市民を追いかけている様子です。
兵士ではない市民が手柄首として首を斬られ、女性は押し倒されて誘拐されてしまいました。混乱に乗じた兵士は市民らの金品を巻き上げ、従わないものは殺してゆきます。
大坂方の大名・明石全登に仕えていた宣教師は「敵味方関係なく殺し合い、道で出会った全ての者を斬り倒していった。手に入るだけの金品を手に入れ、町のあちこちでは火事が起き、城下町は火の海と化した。」と記録しています。
この絵は、兵士たちが子どもを誘拐しようとしている場面です。兵士たちは高くで取引される子どもをこぞって狙いました。このとき、数千もの子どもたちが誘拐されてしまったといわれています。
この絵は敵が少ない大坂城の北側に位置する天満川を船で渡ろうとするも、転覆させられている様子です。船に乗っていた市民の多くは溺死し、橋は焼け落ちていました。川を越えて逃げようとする人は、川に敷き積もった死体の上を歩いて通らないといけないほどの悲惨な状況。運良く川を渡れても、川の向こうで待ち構える盗賊に身ぐるみを剥がされてしまいました。
このときの犠牲者は10万にものぼるといわれているよ
恐ろしすぎる
大坂の町は大変な状況となったが
幕府の復興により、日の本一の経済都市へと生まれ変わったんじゃ
乱取りを規制する軍規も
このような乱取りを軍規で禁止する動きもありました。人道的な理由はもちろん、徹底的な破壊を受けた地域を復興することは困難であり、経済的に打撃をうけます。合戦で侵略した土地をそのまま自国の領土とすることが多いため、「無用に荒らすことは避けた方がよい」と考える大名もいたのでしょう。
自分の土地になってから治めやすいように乱取りを禁止するんじゃ
乱取りを最初に禁止したのは、鎌倉幕府・初代執権の北条時政です。禁止事項は一般人に危害を加えることや木々への放火や伐採を禁止することでした。また、残虐で有名な織田信長も乱取りを禁止しています。
大名たちが乱取りを禁止して安全を保障する代わりに
金銭や年貢などの見返りが発生することもあったようだよ