
九戸政実は岩手県の戦国大名で
すでに天下を手中に収めていた豊臣秀吉に逆らった戦国武将だな

秀吉殿は北条家を滅ぼし
天下人の座を揺るがぬものとしておったしのー

どうして九戸政実は秀吉に逆らったんだろう?
九戸政実の誕生
九戸政実は1536年、九戸城主の九戸信仲の子として誕生しました。政実は武勇に優れた人物であり、主君・南部晴政を補佐しながら隣国の大名と合戦を繰り返していました。また、猛将・政実は岩手県南部に攻め込んで南部家の勢力拡大に尽力しました。


政実が誕生した次の年に豊臣秀吉は生まれたよ


九戸政実と南部家との複雑な関係


南部一族は平安時代の末に東北地方の反乱を治めるために送られた武士の末裔であり、この一族の末裔が九戸村に入って、九戸と名乗りはじめました。つまり、南部家と九戸家は同族の支流です。


九戸家は南部家の同列で連合みたいなものとみなされていたんだよな
政実の主君・南部晴政には跡継ぎがいませんでした。そのため、従兄弟の南部信直を長女の婿養子として迎え入れます。信直は宿敵である安東氏を撃ち破ったこともある名将でした。


晴政の次女は政実の弟・実親に嫁いでいるよ
信直が婿養子として迎え入れられてから5年後、晴政に実の男児が生まれ、名前は晴継と名付けられました。しかしこの頃、晴政の長女が亡くなってしまいます。居場所をなくした信直は南部家の本拠地を出て自分の城に籠ってしまいます。


自分の子がかわいいのはいつの時代でも同じだな
晴継が誕生以来、南部家には不穏な空気が流れ始めます。「晴継を跡継ぎにしたい晴政と縁戚関係のある政実派」と「信直派」の2つに分かれてしまいました。そして、当主・晴政が亡くなると、わずか13歳で跡を継いだ晴継は暗殺されてしまいます。


晴継の死因は病死ともいわれているけど
信直派による暗殺が濃厚だよな
晴継が亡くなったことで南部家臣団で次の当主を誰にするかの会議が開かれました。当然候補に上がったのは信直と、晴政の次女を娶っていた政実の弟・実親。ところが、信直派の家臣・北信愛が根回ししていたこともあって、信直が南部当主と決定されます。


やはり合戦や会議には根回しは大事じゃな
政実は弟の実親が当主になれなかったことや、信直が晴継を暗殺したことを許せませんでした。そして、ついに「我こそが南部当主」と自称するようになります。


弟・実親を差し置いて
自分が南部家の当主と名乗ったんだな


天下人に逆らう!!
南部家がお家騒動に明け暮れている頃、中央では豊臣秀吉が北条家を滅ぼし、天下人の座を揺るがぬものとしていました。秀吉は日本を統治しやすいように各地の大名に国替えを申しつけます。このとき、南部家も国替えを命じられます。


わしは秀吉殿から駿府から江戸へ移されたぞ
この国替えの際に信直は秀吉のもとへ出向き、南部家の当主であることを認められます。そして、今まで同列と扱われていた南部一族は信直の家臣となることを要求されてしまいます。
このことに不満があった政実は信直が不在の間に信直派の家臣へ攻撃を仕掛けていました。さらに、秀吉の奥州仕置に不満があった勢力が反乱を起こし、東北各地で一揆が勃発。


伊達政宗も秀吉に反発しようとしていたしなー
信直への反発が募った政実は5千の兵を率いて挙兵。政実は武勇に優れた武将であったため、信直勢を圧倒。また、南部家臣の中には「どちらに味方してもいいことなさそう」と考え、日和見を決め込むものも多くいました。


お家騒動では領地は増えないんじゃ
政実の勢力に押された信直はついに秀吉に助けを求めました。秀吉は東北地方での一揆を鎮圧するついでに政実の反乱を鎮めようと挙兵。秀吉は養子の豊臣秀次や会津の蒲生氏郷、奥州仕置の実行役・浅野長政を派遣。豊臣軍は6万もの兵で政実が籠る九戸城を包囲。猛将で知られる政実でも圧倒的な数の差には勝機がありませんでした。そして、政実は自身の首と引き換えに城兵や女、子どもを助ける講和を結んで、降伏し城を明け渡します。
ところが、開城の途端に豊臣の兵が九戸城になだれ込み、女、子ども、城兵を皆殺しにしてしまいました。政実はこの光景を見せつけられながら無念にも亡くなってしまいました。


晩年の秀吉は暴君といわれているから
もともと皆殺しにしようとしていたんだろうな


まとめ
九戸政実は南部家のお家騒動に首を突っ込んだことで南部信直との関係がこじれてしまいました。また、天下人・豊臣秀吉の理不尽な国替えに対抗し、最後まで抵抗した東北武士でした。


九戸政実は大物が前でも一歩もひかない
筋の通った武士だね

