名古屋山三郎は美男子で
歌舞伎を作った人といわれているなー
山三郎は格好いいだけではないぞ
槍の使い手でもあったんじゃよ
茶の湯や和歌にも精通していたみたいだしねー
それでは名古屋山三郎の生涯をみていこう!
名古屋山三郎の年表
山三郎の生涯は歌舞伎や浄瑠璃の題材として扱われるようになるぞ
このことから、出雲阿国が山三郎の妻と言われているのかもしれないなー
名古屋山三郎の相関図
養雲院はねね(北政所)に読み書きを教えていたみたい
それに高久は秀吉殿とねね殿の結婚を後押ししたそうじゃ
名古屋山三郎の誕生
名古屋山三郎は1572年に名古屋高久と養雲院の子として誕生しました。名古屋氏は、鎌倉幕府の執権を務めた北条家とも関係のある高貴な家柄です。また、母・養雲院の兄・中川重政は織田家の家臣でした。
山三郎は名門家に生まれたんやなー
武士へ!!
15歳くらいまで、山三郎は京都の建仁寺に入っていました。ある時、織田家家臣・蒲生氏郷が京都に来た時、町人の中にひときわ美しい娘を発見。氏郷はその娘に心を奪われ、家臣たちに娘を探させました。家臣たちは娘を探しあてましたが、その正体は山三郎でした。氏郷は男であることにがっかりしましたが、山三郎を小姓として取り立てます。
氏郷に仕えると山三郎は槍の才能を一気に開花させます。九州征伐や小田原征伐に出陣しては、一番槍を取っていました。そのため、「名古屋山三は一の槍」と謳われていました。
白綾に赤裏を付した具足を着け、猩々緋の羽織を着たど派手な出立ちで、
合戦に挑んでおったんじゃよ
合戦での活躍が認められて2000石与えられていました。しかし、主君・蒲生氏郷が突如亡くなってしまい、山三郎は蒲生家を去って京都で浪人となります。そして、京都の大徳寺で出家して宗円と名乗りました。
僧となっていたころ、文化人であった細川藤孝に気に入られました。そして、細川家の家臣たちも美僧・宗円の噂を聞きつけて、大徳寺に出かけてその姿を見ようとします。ところが、主君・細川忠興はこの事態をよく思わず、宗円に会いに行くことを禁止。しかし、彼の父・藤孝はこのことを無視して、宗円を屋敷に招き入れていました。
藤孝は宗円山三郎に対して
「粗末な薄衣ですら宗円が身に着けていれば錦にも勝る」といったよ
悲運な最期、、、
山三郎は還俗して俗世間に戻り、妹の縁で森忠政に仕えるようになります。山三郎は美男子で茶の湯や和歌にも通じていたため、忠政がすぐに気に入り、5000石の所領を与えていました。
山三郎の妹・岩は森忠政に嫁いでたよ
さらに山三郎の妹たちも森家の重臣に嫁いだため、山三郎は森家内での大きな発言力を持つようになります。ところが、森家の重臣・井戸宇右衛門はこれをよく思っていませんでした。そして、右衛門は忠政への奉公もさぼるようになっていたため、忠政は山三郎に刀を授けて右衛門の誅殺を命じます。
山三郎がかつて武芸に秀でていたことから
忠政は刀を授けたんじゃろな
ところが、右衛門は森家内では指折りの猛将で、山三郎はあっけなく返り討ちにあってしまいます。ただ、忠政の命は他の家臣にも伝えられていたため、宇右衛門はその場で討たれました。
山三郎の遺体は城の北側に、宇右衛門は南側に埋められて、墓標の代わりに松が植えられたんじゃ
どちらかの松が繁ると、もう一方は生気を失ったようになるんじゃー
まとめ
名古屋山三郎は戦国時代を代表する美少年でありながら、武芸にも秀でた武将でした。また、茶の湯や和歌にも精通していたため、細川藤孝などの文化人にも取り立てられた万能の人物といってよいでしょうか。
山三郎が芸達者で美少年だったことから、
「山三郎と淀殿の子が豊臣秀頼ではないか」という噂まで流れたよ