出雲阿国といえば歌舞伎の文化を作った人だよなー
能や狂言と違って
歌舞伎は庶民から生まれた大衆文化じゃなー
それにしても歌舞伎は女人禁制なのはどうしてだろう?
出雲阿国の生涯から紐解いていこう!
出雲阿国の誕生
出雲阿国は1572年、出雲(島根県)に鍛冶屋の中村三右衛門の娘として生まれました。そして出雲大社の巫女となった阿国は、出雲大社復興のため舞を舞いながら諸国を巡回しはじめました。
当時の巫女は民衆に対する慰労の目的が強かったみたい
急速に広まるかぶき踊り
時慶卿記には、1600年に「クニ」という人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録が残っており、そのクニが3年後の1603年にかぶき踊りを始めたと考えられています。
ヤヤコ跳はかわいらしい少女の小踊りだったみたい
また阿国は名古屋山三郎という武士と結婚していましたが、同僚との諍いで1603年に亡くなってしまいます。阿国は武家の妻では亡くなったため、1603年に阿国がかぶき踊りを始めた可能性が高いといえます。
つまり時慶卿記に書かれているクニと
出雲阿国が同一人物である可能性が高いということやな
新しい文化はなかなか浸透しないのが一般的ですが、阿国のかぶき踊りは時代とあいまっていたのか、すぐに民衆に広まっていきました。
阿国は伏見城や北野天満宮で踊りを披露していたんじゃ
トップスターとなった阿国でしたが、京都ではすぐにブームが下火となってしまい、再び諸国を転々とし始めます。次第に、様々な地域で「阿国歌舞伎」という名で広まっていきました。
各地の遊女は阿国歌舞伎に目をつけ、「遊女歌舞伎」へと変化し、全国へと広がる大ブームを巻き起こりました。ところが、将軍・徳川秀忠は阿国歌舞伎や遊女歌舞伎を快く思ってはいなかったため、江戸では小規模で公演が行われていました。そこで阿国は江戸城で歌舞伎を披露。しかし、これ以降阿国が歴史の表舞台にあらわれることはなく、行方不明となってしまいました。
阿国は出雲にもどって尼になったといわれているけど
詳細は不明だよ
まとめ
出雲阿国は出雲大社の復興のために、各地で舞を舞い始めたことが始まりでした。次第にその舞がかぶき踊りと名付けられ、現在の歌舞伎の原型となっていきます。
歌舞伎が女性禁制となったのは、
阿国が作ったかぶき踊りが女性による大胆で過激な歌舞伎に変化していったから、風紀が乱れるということで禁止されたからだよ