有名な戦国武将には
さまざまな生存説がささやかれていますねー
領民たちは主君には生きながらてほしいという願いから
生存説がたくさん生まれたんじゃろな
今回は戦国武将生存説について紹介していきます!
真田幸村生存説!鹿児島まで生き延びていた!?
真田幸村は大坂夏の陣にて、徳川方の大軍に何度も突撃を繰り返した。しかし多勢に無勢、幸村は徳川軍に討ち取られてしまったとするのが通説である。
真田幸村の活躍の裏には
毛利勝永という武将がいたそうです
ところが、真田幸村はたくさんの影武者や大坂城まで続く秘密の抜け穴を備えていた。それらを利用して大坂城の落城の際まで生きており、豊臣秀頼を連れて薩摩(鹿児島県)まで逃れたといわれている。そのためか、薩摩には秀頼と幸村の墓が存在している。
花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり 加護島へ
という歌が京都や大坂では流行したというよ
秀頼は親戚の木下を頼って
大分で暮らしていたそうじゃな
明智光秀生存説!徳川家康の家臣になった?
明智光秀は本能寺にて織田信長を討ち取ったものの、思ったように味方を集めることができなかった。そして、非常識的な行軍速度で進軍してきた豊臣秀吉に討ち取られてしまったと伝えられている。
光秀は落武者狩りにあって
無残な最期だったそうだよ
しかし、明智光秀は生き延びており、徳川家康の僧侶・南光坊天海となったといわれている。さらには、近くの寺社で生きながらえていたものの、関ヶ原の戦いに参加しようとした際に落馬して死去したという説もある。
戦後の首実験で
豊臣秀吉がその首を判別できないとは思えないけど、、、
島左近生存説!左近も坊さんになった?
石田三成の家臣であり、「石田三成に過ぎたるもの」とされるほどの実力者の島左近。関ヶ原の戦いで戦死したとされているが、戦場の最期のためか、その遺体は見つかっていない。
関ヶ原の戦い後は
人が入り乱れていたから遺体の確認が難しかったんだろうな
島左近は関ヶ原の戦い後、京都に逃れたといわれ立本寺の僧となった説や、西に逃れて熊本の細川家に仕えた説、滋賀や浜松に潜伏していた説などが飛び交っている。
島左近は三成をかばって討ち取られていそうじゃがな
武田勝頼生存説!生まれ変わりの大崎玄蕃とは?
武田勝頼は戦国最強と囁かれた武田信玄の跡を継いだ武将。ところが、天下に名を轟かせていた織田信長の甲州征伐を受けて、天目山で自害して果てたといわれている。しかし、そんな武田勝頼にも生存説が残されている。
勝頼の生存説とは初耳!!
自害して果てたのは勝頼の影武者であり、勝頼本人は息子とともに四国へ逃亡し、遠縁の親戚とされる香宗我部氏を頼ったとされている。そして、「大崎玄蕃」と名を変えて1609年まで生きたとか。高知県には勝頼の墓が存在し、「武田勝頼土佐の会」という団体もあり、勝頼にちなんだ祭りが毎年開催されている。
長宗我部は織田を武田と協力して
挟み撃ちにしようとしていたのかも
織田信長生存説!やっぱり信憑性は薄い!?
本能寺の変で明智光秀により討ち取られた織田信長にも生存説が残されている。生存説が生まれた根拠はその遺体が見つからない点に尽きるだろう。
でも信長はどう暮らしていたんだろう?
本能寺からなんとか落ち延びた信長は薩摩へ逃亡した説や豊臣秀吉に匿われていたものの、邪魔になったために大坂城に幽閉されたとする説がある。
しかし、これらの生存説は大雑把な内容となっており、信憑性はかなり低いと考えられる。
織田信長が生きているなら公にしても問題ないから
やっぱり亡くなったのでは?
まとめ
戦国武将の生存説をまとめてみました。やはりどれも信憑性に欠けるものばかりで、伝説の域を超えませんね。
とはいえ、武将が生き延びてひっそりとどこかで暮らしていたと考えるのは、「歴史ロマン」があっておもしろいではありませんか?