幕末の偉人である坂本龍馬と戦国武将の明智光秀が親戚って説があるけど本当かな?
信長殿を裏切った明智光秀は謎に包まれておって
さまざまな伝説を残しておるの
今回は坂本龍馬が明智光秀の末裔伝説を検証していくよ
坂本龍馬が明智光秀の末裔といわれる根拠
この伝説の根拠は次の4つがあるよ
光秀の城は坂本城
織田信長の家臣だった頃、明智光秀は近江(滋賀県)坂本に本拠地・坂本城を置いていました。そのため、光秀の末裔である龍馬の先祖が坂本姓を名乗ったという説です。
しかし、龍馬の先祖はもともと大濱姓、才谷姓を名乗っています。また、坂本という地名や坂本姓の人は全国各地に存在し、少し短絡的な説です。
龍馬の会社は亀山社中
明智光秀が本能寺の変を決起したとき、亀山城を居城としていました。また龍馬が仲間とともに設立した貿易会社は亀山社中といい、のちに海援隊となり倒幕に貢献しました。そのため、龍馬は光秀の居城にちなんで社名をつけたという説があります。
ところが、龍馬は長崎県亀山で会社を設立したことにちなんで会社を設立したそうです。
亀山社中は日本の株式会社の起源となっているよ
光秀と龍馬の家紋には桔梗紋
明智光秀は家紋として「水色桔梗」を用いていました。家紋のほとんどが黒だったため、水色の家紋を用いていた光秀のことを織田信長はうらやましがったといわれています。
坂本龍馬が用いた家紋は「組み合わせ桝に桔梗」です。
両方に桔梗紋があり、龍馬が明智光秀と関係がありそうです。ところが、桔梗紋は武家ではよく使われており、坂本家もそれにならって使用したのではないでしょうか
家紋にはその家ごとの意味が込められていて奥が深いんじゃ
明智光秀と長宗我部元親の関係
明智光秀は織田信長に指令を受け、四国の長宗我部元親との取り次役を担っていました。また、光秀は重臣・斎藤利三の娘を長宗我部元親に嫁がせて、光秀と元親は良好な関係を築いていました。そのため、光秀の子たちは本能寺の変後、関係の深い長宗我部元親のいる土佐(高知県)へ逃げ込みました。その子孫が土佐生まれの坂本龍馬という説です。
斎藤利三の娘の一人は春日局だよ
まとめ
坂本龍馬は平安時代に古今和歌集を編纂し、土佐日記の作者である紀貫之の子孫であると主張していたようです。
また、明智光秀と坂本龍馬を紐付ける根拠がまだまだ少なすぎます。そのため、坂本龍馬記念館の公式サイトには次のように記載されています。今後の研究に期待ですね。
「坂本家の史料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていない」としつつも、坂本家の中で言い伝えとして受け継がれていることから、「資料がないことを理由に、否定することもできない」としています。
高知県立坂本龍馬記念館
坂本龍馬が明智光秀の末裔という伝説が生まれたのは明治時代に入ってからだよ
しかも小説の中で生まれたことだから信憑性が、、、