石田三成も黒田官兵衛も豊臣秀吉の家臣だな
2人がどんな関係だったかはあまり知られていないぞ
互いに秀吉を助けておったが
そこには不仲さを感じさせる話もあるぞ
それでは、黒田官兵衛と石田三成の関係をみていこう!
黒田官兵衛とは?
黒田官兵衛は播磨(兵庫県)に生まれ、小寺政職の重臣となり姫路城代を務めていました。織田信長が台頭すると、信長の家臣の豊臣秀吉に仕えています。
官兵衛は自軍の兵力を温存するため「戦わずして勝つ戦法」で秀吉を支えたぞ
本能寺の変の時にはすぐさま明智光秀を討ち取るように秀吉に進言。秀吉は官兵衛のあまりの賢さに舌を巻いたといいます。
秀吉は官兵衛の実力を恐れていたみたいだよ
石田三成とは?
石田三成は寺の子でしたが、豊臣秀吉に気に入られて家臣となっています。三成は1583年の賤ヶ岳の戦いの頃から武将としての頭角を表すようになってゆきます。
三成が秀吉に三献茶でもてなしたことは有名だな
しかし、三成には武士としての才能があまりなく、秀吉の側で仕える参謀として活躍。そのため、三成が合戦に出陣することは少なく、実際に出陣している武将から反感を買ってしまいます。これが関ヶ原の戦いへと繋がってしまいました。
豊臣の家臣は武断派と文治派に分かれてしまったんだ
三成が官兵衛に讒言!?
豊臣秀吉の九州征伐後、黒田官兵衛は豊前(福岡県)に12万石の領土を与えられました。しかし、これは官兵衛の活躍からすると非常に少ない石高です。
江戸時代に成立した「黒田家譜」によると、三成が官兵衛がキリシタンであるため、石高を減らすように秀吉に讒言したといわれています。とはいえ、この時に三成がこれほどの影響力を持っていたかは不明です。
豊臣秀吉が実力のある官兵衛を大大名にすると何をするかわからないから
領土を減らしたともいわれているぞ
朝鮮出兵にて
豊臣秀吉は天下統一を成し遂げると、明(中国)を征服するため朝鮮へ兵を進めました。このとき、日本軍は兵糧が不足して苦戦。そのため、三成や大谷吉継は官兵衛のもとを尋ねます。
官兵衛は浅野長政とともに戦局の立て直しを秀吉から命じられていたよ
三成や大谷吉継は秀吉の代わりに朝鮮へ渡ったんじゃ
ところが、官兵衛は浅野長政との囲碁の最中であったことや、三成のことを疎ましく思っていたため、囲碁を終えてから三成と対面。
しかし、三成らはこの無礼な行為に激怒し、秀吉にも書簡で報告したといいます。これには秀吉も官兵衛へ謹慎を命じ、官兵衛は剃髪して出家。遺言まで書き残しましたが、結局秀吉に許されました。
官兵衛も無礼だけど
三成はすぐに秀吉に報告するんだなー
まとめ
石田三成と黒田官兵衛は同じ時期に豊臣秀吉を支えた武将にも関わらず、その関係が描かれることは少なくあまりわかっていません。ですが、この2つの逸話から不仲だったのではないかと思います。そのため、官兵衛は関ヶ原の戦いで三成に味方しなかったのではないでしょうか?
長政が三成を嫌って東軍に属していたのもあるだろうけど