豊臣秀吉は人たらしといわれ、屈託のない笑顔で人の心を掴んで出世
だけど晩年は横柄な態度が目立ってしまってほとんど人気がなかったとか
豊臣家が弱体化したおかげで
このわしが天下を取れたんじゃー
今回は「どうして豊臣秀吉が変貌してしまったのか」について解説していきます
燃え尽き症候群!?
豊臣秀吉といえば日本一出世したといっても過言ではありません。百姓の子として生まれ家を出て織田信長に仕官。抜群のコミュニケーション能力でどんどん出世を果たし、最終的に天下統一を成し遂げました。しかし、天下統一を達成したことで次なる目標がなく、生き甲斐を失って燃え尽きてしまったのではないでしょうか。
確かに天下統一したら次になにをすればいいかわからないし
秀吉はぽっかりとあいた目標を埋め合わせるべく、朝鮮出兵を行って明を征服するという新たな目的を掲げました。ところが、この政策が失敗に終わってしまったため、野心家の暴君と言われているのではないでしょうか。
天下人だけが抱える悩みじゃな
頼りにできる弟の死
百姓から成り上がった豊臣秀吉には頼りにできる譜代の家臣が存在せず、いつ下剋上を起こされて裏切られるか不安だったでしょう。その支えとなったのが実の弟の豊臣秀長でした。
秀長は諸大名と秀吉の間を取り持ち、双方から信頼されていた武将でした。諸大名からすれば秀吉にうまくとりなしてくれる秀吉の弟であり、秀吉からすればはっきり意見してくれる弟です。
しかし小田原征伐直後に豊臣秀長が亡くなり、秀吉の苛烈な面ばかりが目立つようになったのではないかといわれています。
自分が下剋上で成り上がってきたから
家臣に下剋上を起こされるのが怖くなってしまったのかも
また、秀吉と秀長は九州征伐の時から不仲だったという説もあり、そこまで懇意ではなかったという意見もあります。
有能な蒲生氏郷をなくしたことも原因だとか
子ができない、、、
豊臣秀吉は天下統一を成し遂げることができました。しかし、肝心の後継ぎがいませんでした。そのため、秀吉はたくさんの側室を儲けましたが、それでも子に恵まれません。秀吉52歳にしてはじめて鶴松が誕生しましたが、すぐに亡くなってしまいます。
待望の子が生まれたのに、すぐに亡くなってしまっては秀吉の性格が豹変するのも無理はありません。
天下を取れても子ができないのでは、、、
そして第二子となる豊臣秀頼が生まれると、秀吉は如何にして秀頼を跡取りとするかが人生の目的となってしまいました。そのせいで、秀頼への度の過ぎた溺愛が目立ち、周囲が眉をひそめるようになったのかもしれません。
養子で後継者に決まっていた
豊臣秀次は処刑されておるしのー
年をとって頑固になった
人は年を取れば頑固になってしまうものです。天下人の豊臣秀吉も同じように年をとって、ひょうきんものから頑固な人になってしまったのではないでしょうか。
また、秀吉は天下統一を成し遂げています。自分は成功者だから間違ってないと強く思ってしまいがちです。さらに、天下人にだれも注意することもできません。そのせいで、秀吉のことをだれも止めることができなくなったのではないかという説があがっています。
晩年、秀吉は認知症だったとか
秀吉の本性が剥き出しになっただけ
豊臣秀吉は百姓から天下人まで出世しました。そのためには主君の織田信長をはじめ、様々な人に気を遣わなければなりません。
ところが、天下人となってしまえば気を遣って好感度をあげる必要などありません。これは現代社会であっても出世した途端、横柄になり傲慢になる人は珍しくありません。つまり、秀吉は出世のために明るい人間や協調性のある人間を演じていたといえます。
天下人であれば
自分より上の人はいないもんな
また、秀吉は天下人となる前から残虐な点がちらほら散見されます。三木合戦や鳥取城攻めのような徹底的な兵糧攻めは秀吉の性格に起因しているのではないでしょうか。
これが秀吉の本性なのかも
まとめ
豊臣秀吉が変貌してしまった説をいくつかピックアップしました。このうちのどれか1つの理由ではなく、さまざまな要因が複雑に絡み合って、暴君・豊臣秀吉は形成されたのではないでしょうか?
暴君といっても
海外の暴君に比べたらそうでもないけど