熊本城を築いた築城の名手加藤清正
清正は朝鮮出兵の時に虎をやっつけたってゆうけど本当かな?
古来から朝鮮半島には虎が多く生息していたんじゃ
それでは清正の虎退治伝説を見ていこう!!
加藤清正とは?
加藤清正は豊臣秀吉の親戚であったことから、幼い頃から秀吉にかわいがられていた武将。賤ヶ岳の戦いで武功をあげると、「七本槍の1人」に数えられています。
秀吉が亡くなると、石田三成とソリがあわず徳川家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍に味方して、54万石の大名となっています。東軍の大名となっても、豊臣秀頼のことを気にかけており、家康と秀頼の会見を実現しました。
加藤清正は熊本城や名古屋城を築いた城作りの名人!
熊本城は幕末になっても陥落しなかったというよ
虎退治は本当!?
豊臣秀吉は中国大陸征服に向けて、全国の大名に朝鮮出兵を命令。清正も秀吉の命に従って出陣しました。清正はどんどん北に進軍し、現在の中国と北朝鮮の国境付近まで侵攻したといいます。
清正はライバルの小西行長と争うように進軍していていったよ
ある時清正の軍勢が山の麓で陣をかまえていると、夜中大きな虎が現れて、清正軍の馬をくわえて逃げていったことがありました。
これを知った清正は激怒します。ところが次の日には清正の家来も噛みちぎられてしまいます。
そこで清正は虎退治を決意し、家臣とともに山を捜索しました。清正は虎をみつけると火縄銃を撃ち放ち、一発で虎をしとめました。
清正の幼名は「虎千代」という
何かと虎と関係の深いやつじゃ
秀吉は虎の脳ミソがほしかった!?
天下を取った豊臣秀吉は何もかもを手にいれましたが、子どもだけが手に入りませんでした。ところが秀吉56歳のとき、側室の淀殿が秀頼を出産。秀吉は長生きをしたいと考え、長寿には「虎の脳ミソ」が効くと知ります。
ちょうどその頃大名たちは朝鮮に出陣しており、朝鮮には虎がたくさん生息していました。これを好機と考えた秀吉は大名たちに虎狩りを行わせたといいます。
秀吉の虎狩り命令により、加藤清正だけでなく、黒田長政、島津義弘も虎狩りをおこない、秀吉に虎の肉や皮を送ったといいます。
秀吉は虎の肉を食しましたが、効果はなく、結局61歳で亡くなってしまいました。
大名たちが虎退治しすぎたせいで
朝鮮半島では虎が激減したんじゃ