明智光秀が本能寺の変を起こしたことは有名だけど
それよりも前から謀反を決意していた証拠があるらしい
明智殿は連歌にのせて謀反をほのめかしていたんじゃ
よくそんなことができるなー
それでは明智光秀の有名な一句を考察してみましょう
連歌とは?
連歌は鎌倉時代に始まったといわれ、和歌から派生した詩歌です。連歌は五七五、七七五七五、七七と順に交互に繋げてゆきました。最初の五七五を発句、第二句の七七を脇句、第三句の五七五を第三、最後の七七を挙句といいます。
現代でも使われる「挙げ句の果てには」は連歌の挙句から由来しているよ
連歌は室町時代に最盛期を迎え、京都や奈良を中心に流行しており、武士にとっても必須の教養でした。
武士は武術だけでなく
茶の湯や書道などの教養を身につけていないとだめなんじゃ
明智光秀は教養人
明智光秀には冷徹な性格で合理主義なイメージがありますが、実は教養人でした。というのも、光秀は戦国武将の中で最高の教養人と謳われた細川藤孝と仲がよかったからです。また、藤孝の連歌師である里村紹巴とも交流があり、光秀は一流の文化人との付き合いで教養を深めてゆきました。
謀反の兆候!?
明智光秀と連歌を語る際に欠かせないのが「愛宕百韻」。これは1582年5月28日に愛宕山で開かれた連歌会です。この連歌会の数日後の6月2日に本能寺の変が起こっているため、光秀の謀反と関係があるのではないかと言われています。
光秀はどんな歌を詠ったんだろう?
「ときは今 雨が下知る五月かな」
この句を直訳すると「今の季節、この雨の下で5月であることを知る」となります。ところが、この句を意訳すると次のようになります。
「土岐氏が天下を支配する五月となった」
とき→「土岐氏=明智光秀の出身」
あめ→「天=天下」
下知る→「治める」
となります。つまり、明智光秀は織田信長に代わって天下人になると犯行予告していたわけです。
よくこんな歌を連花会で読めるなー
また、これに続けて詠まれた句を紹介しましょう。
[脇句] 水上まさる庭の夏山
[第三] 花落つる流れの末をせきとめて
[挙句] 国々はなほ長閑なる時
脇句では「まさる=勝つ」や第三での「落つる=信長の首が落ちる」とも解釈できます。そのため、本能寺の変後にこれを知った豊臣秀吉は第三を詠んだ里村紹巴に詰問しています。
これ本当?
この歌が詠まれた直後はなんの問題もなく、連歌会は続けられたようです。そのため、光秀にはこのような意図なく、歌を詠んだだけかもしれません。そもそも、光秀が謀反の意思表示をしても何の得もありません。
信長に謀反の意思がバレたらどうしようもないもんなー
また、光秀の句は「下知る」ではなく、「下なる」であったのではないかともいわれています。もし、そうであれば、「土岐氏は今、降りしきる雨のような苦境から脱出したい五月だ」となり、謀反の意思を表していないことになります。
そのため、この歌は後の権力者となった豊臣秀吉が明智光秀を悪人に仕立て上げるため、連歌の内容を書き換えたのではないかという説があがっています。
権力者は歴史を都合のいいように改ざんすることはよくあるよね
まとめ
明智光秀は突然謀反を起こしたといわれますが、実際には少し前から家臣に打ち明けていたようです。また光秀は謀反を起こすことに緊張してしまい、何度も神社でおみくじを引いたり、携帯食のちまきを外側の笹の葉ごと食べたりしていました。
光秀は本来律儀な性格だから
こんなに緊張したんだろうな