明智光秀は愛妻家だったことで有名!!
麒麟が来るでは光秀の妻・煕子は木村文乃さんが演じていたね
しかも、明智殿は珍しく側室を持たなかったしのー
それに煕子殿は美人じゃったぞ
今回は明智光秀を支えた煕子の生涯を紹介していきます!
煕子の誕生
煕子は1530年、妻木範煕の長女として誕生しました。煕子の生まれた妻木家は清和源氏の流れを汲む土岐氏の庶流であり、明智家と親戚関係にありました。そのため、煕子と光秀は幼い頃から顔馴染みであったといわれています。
源氏の流れを汲む武家の生まれか
また、煕子という名前は範煕の子であるから「煕子」と後世の人々が名付けた可能性が高く、本名はわかっていません。また、妻木煕子や明智煕子と言われますが、これは現代風に名前を表記しているだけで、このように呼ばれることはありませんでした。
女の人には苗字はなかったんじゃ
明智光秀と結婚
煕子が明智光秀と結婚したのは1540年から1550年の間といわれています。しかし、この時問題が起きました。煕子は結婚の直前で天然痘を発症してしまいます。天然痘は戦国時代に流行った伝染病であり、高熱がでて全身に発疹が起こり、死亡率が非常に高い病気でした。煕子はこの病気にかかってしまい、一命は取り止めたものの、左頬にあばたが残ってしまったのです。
煕子は美人だったから
あばたができたのは残念だな
煕子の父はどうしても妻木家と明智家の縁談を成立させたいと考えていたため、煕子の妹の芳子を光秀に嫁がせようとしました。ところが、光秀は「人の容姿はすぐに変わるけれど、心の美しさは変わらない」と言って、煕子と結婚することを選んだといわれています。
光秀かっこいい!!
めでたく結婚した2人でしたが、数々の災難に見舞われました。明智光秀が仕えていた斎藤道三が息子の斎藤義龍に敗れる長良川の戦いが起きてしまいます。光秀の居城・明智城も落城してしまい、明智家は母方の親戚を頼って越前(福井県)へと逃れました。このとき、煕子は懐妊していたようで、安心して出産できない状況に不安を覚えたことでしょう。
光秀は煕子のことをおんぶして獣道を乗り越えたらしい
運良く越前に辿り着いたものの、光秀は新しい士官を先を見つけることができずにいました。そのため、光秀は寺子屋を開いて子どもたちに文字を教えます。そこへ、越前の大名・朝倉義景の家臣がやってきて、光秀に連歌会を主催するチャンスが訪れました。ところが、連歌会は主催者が酒宴を用意しなければなりません。光秀は美濃(岐阜県)から逃亡してきた身であるため、十分な資金はありません。そこで、煕子は自分の美しい長い黒髪を売って、資金の足しにしたといいます。そして、連歌会は無事に終わり、光秀は晴れて朝倉義景に仕官することができました。
煕子はいい奥さんだな
その後、明智光秀は織田信長に仕えるようになり、見事に出世してゆきます。煕子にはあばたがありましたが、「明智の妻こそ天下一の美女」といわれていました。これを聞いた織田信長はその噂を確かめるべく、煕子を後ろから抱きしめたといいます。これを煕子はとっさに扇で打って撃退。ところが、これ以来織田信長が明智光秀に嫌がらせをするようになります。
明智殿は打開策として
煕子殿の妹の芳子を信長殿の側室にして対処したぞ
織田信長は織田家内での風紀を取り締まっていたから
この逸話は信憑性が薄いよ
仲良し夫婦
煕子は結婚してから苦労ばかりでしたが、3男4女に恵まれました。2人の子といえば、ガラシャが有名です。ガラシャも美しい女性と知られています。
男児は本能寺の変までに亡くなったと言われているよ
明智光秀が戦による過労で倒れてしまったことがあります。そのとき、煕子は光秀の看病をおこないました。やがて、光秀は回復しますが、今度は煕子が看病疲れで倒れてしまいました。光秀は祈祷を行いましたが、煕子は亡くなってしまいました。戦国時代では、妻が先に亡くなった場合、夫は葬儀に参列しないのが一般的です。ところが、光秀は煕子の葬儀に参列しました。最期まで相思相愛の夫婦だったといえます。
煕子は本能寺の変で亡くなったとも
まとめ
煕子は浪人時代の明智光秀を献身的に支えたできた奥さんでした。そのため、光秀は出世しても煕子を大事にして、生涯側室をもたなかったといいます。明智光秀は織田信長を裏切ったため、性格の悪い武将のように描かれがちですが、実際はこころ優しい戦国武将だったのではないでしょうか?
本当は光秀には側室はいたんじゃないかともいわれているよ