織田信長の正室といえば濃姫!
でも濃姫がどんな人物だったかはあまり知られていないなー
信長殿の正室であるのに
知られている情報はかなり少ないんじゃよ
それに本能寺の変の後はどうやって暮らしていたんだろうなー
それでは濃姫の生涯をみていこう!!
濃姫の相関図
濃姫の相関図は複雑だな
父・斎藤道三による政略結婚に振り回された人生だったんか
戦国時代の女性のほとんどが政略結婚をさせられておるの
濃姫の誕生
濃姫は1535年、美濃(岐阜県)に斎藤道三の子として生まれました。斎藤道三は商人として生まれましたが、下剋上でのし上がって一国の大名となった人物です。
道三は出世するために主君を裏切ることを厭わなかったから
「美濃のマムシ」といわれたんじゃ
また濃姫といわれるのが一般的ですが、これは「美濃からきた姫」を省略しており、本当の名前ではありません。濃姫は帰蝶や胡蝶、鷺山殿などと呼ばれていたようですがはっきりとはわかっていません。
信長の正室なのに名前もはっきりしないなんて!!
政略結婚で信長のもとへ
濃姫は信長の正室として有名ですが、実は信長が3人目の夫でした。父・道三は美濃の守護土岐家との関係をよくするため土岐頼純へ濃姫を差し出しました。ところが、道三が毒殺してしまい1人目の夫は亡くなります。
次に、道三は土岐頼香に濃姫を嫁がせます。しかし、2人目の夫も道三が切腹に追い込み、亡くなります。
道三は娘を送ることで相手に親近感を持たせて油断させ
その隙に討ち倒していったんやなー
道三は隣国、尾張(愛知県)の大名・織田信秀と関係を築くため、濃姫を織田信長のもとへ嫁がせました。実に15歳にして3度目の結婚です。
このころ、信長殿は「尾張のうつけ」と呼ばれておったから
濃姫は嫁ぐのが不安だっただろうなー
道三は娘の旦那となる織田信長が本当にうつけなのかを確認するため会見したいと考え、信長を呼び寄せました。すると道三は信長の風貌に驚き、普段の奇抜な格好は見せかけだと悟ったといいます。
道三は信長はいずれ美濃を治めるだろうといって亡くなったみたい
信長との結婚生活
濃姫は信長と結婚して以来歴史の表舞台から姿を消しているよ
その理由を検証していこう
信長との離縁説
濃姫と信長の結婚は斎藤家と織田家を友好に保つための政略結婚でした。しかし、斎藤家は信長によって滅ぼされてしまいます。さらに濃姫と信長の間には子どもが出来なかったことから離婚したのではないかといわれています。
ところが、信長は斎藤家の家臣であった武将を束ねるために、道三の娘・濃姫がいた方が有利なのは間違いありません。そのため離縁していないと考えるのが一般的です。
信長には濃姫と離縁するメリットがないし
離婚はしていないだろうなー
濃姫死亡説
濃姫は信長と結婚してすぐに亡くなったために歴史書にでてこないのではないかといわれています。
ただ本能寺の変を描いた浮世絵には、薙刀をもって戦う女性が描かれています。これは濃姫ではないかといわれていますが、真相は謎です。
本能寺の変で戦ったのは創作だといわれているよ
濃姫生存説
歴史書「言継卿記」には、信長が将軍・足利義昭を上洛させたころの記述に「信長本妻」という記述があります。
また、江戸時代に書かれた「明智軍記」には「信長内室」がたくさんアワビを振る舞って家臣を労ったという記録が残っています。
「内室」とは身分の高い女性のことを表しておる
さらに織田信雄に仕えていた家臣団の名簿があり、織田家中の所領分配について記された箇所には、「安土殿」という名前があります。
これらは濃姫を表しているのではないかといわれています。そのため、濃姫は信長の天下統一を支えていたのではないでしょうか?
秀吉の妻ねねのように家臣団をまとめて
信長の補佐をしていたんじゃないかなー?
濃姫は明智光秀と恋仲!?
濃姫と明智光秀は家系図の通り、いとこの関係でした。光秀と濃姫は7歳差でしたが、光秀は斎藤道三の近習であったため濃姫と親密な関係だったようです。
光秀と濃姫の間にはこんな逸話があります。
「いとこ同士で仲がよかった2人ですが、政略結婚により引き裂かれてしまいます。そして本能寺の変で濃姫は光秀に味方。その後は光秀とともに、、、」
濃姫に関する書物が残っていないから
のちの人が好きに創作したんやろなー