[5分でわかる!]織田信長の正室濃姫は明智光秀と恋仲だったのか?

ひろ
ひろ

織田信長正室といえば濃姫だよなー

でも濃姫がどんな人物だったかはあまり知られていないなー

徳川家康
徳川家康

信長殿の正室であるのに

知られている情報はかなり少ないんじゃ

ひろ
ひろ

本能寺の変の後はどうやって暮らしていたんだろうなー

それでは濃姫の生涯をみていこう!!

スポンサーリンク

濃姫の相関図

ひろ
ひろ

濃姫の相関図は複雑やなー

斎藤道三による政略結婚に振り回された人生だったんやなー

徳川家康
徳川家康

戦国時代の女性のほとんどが政略結婚をさせられておるからのー

濃姫の誕生

濃姫は1535年、美濃(岐阜県)に斎藤道三の子として生まれました。斎藤道三は商人として生まれましたが、下剋上でのし上がって一国の大名となった人物です。

徳川家康
徳川家康

道三は出世するために主君を裏切ることを厭わなかったから

美濃のマムシ」といわれたんじゃ

また濃姫といわれるのが一般的ですが、これは「美濃からきた姫」を省略しており、本当の名前ではありません。濃姫は帰蝶きちょう胡蝶こちょう鷺山殿さぎやまどのなどと呼ばれていたようですがはっきりとはわかっていません。

ひろ
ひろ

信長の正室なのに名前もはっきりしないなんて!!

濃姫。亡くなった年もはっきりとはわかっていない。(wikipedia)

政略結婚で信長のもとへ

濃姫は信長の正室として有名ですが、実は信長が3人目でした。父道三は美濃の守護土岐ときとの関係をよくするため土岐頼純ときよりすみへ濃姫を差し出しました。ところが、道三が毒殺してしまい1人目の夫は亡くなります

そして、道三は土岐頼香ときよりたかに濃姫を嫁がせます。しかし、2人目の夫も道三が切腹に追い込み、亡くなります。

ひろ
ひろ

道三は娘を送ることで相手に親近感を持たせて油断させ

その隙に討ち倒していったんやなー

道三は隣国尾張(愛知県)の大名織田信秀と関係を築くため、濃姫を織田信長のもとへ嫁がせました。実に15歳にして3度目の結婚です

徳川家康
徳川家康

このころ、信長殿は「尾張のうつけ」と呼ばれておったから

濃姫は嫁ぐのが不安だっただろうなー

道三は娘の旦那となる織田信長が本当にうつけなのかを確認するため会見したいと考え、信長を呼び寄せました。すると道三は信長の風貌に驚き、普段の奇抜な格好は見せかけだと悟ったといいます。

ひろ
ひろ

道三信長はいずれ美濃を治めるだろうといって亡くなったみたい

斎藤道三。息子義龍と仲が悪く、討たれてしまう。(常在寺蔵)

信長との結婚生活

濃姫は信長と結婚して以降歴史の表舞台から姿を消してしまいます。その理由を検証していきましょう。

信長との離縁説

濃姫と信長の結婚は斎藤家織田家を友好に保つための政略結婚でした。しかし、斎藤家は信長によって滅ぼされてしまいます。さらに濃姫と信長の間には子どもが出来なかったことから離婚したのではないかといわれています。

ところが、信長が斎藤家の家臣であった武将を束ねるために、道三の娘濃姫がいた方が有利なのは間違いありません。そのため離縁していないと考えるのが一般的です。

ひろ
ひろ

信長には濃姫と離縁するメリットがないし

離婚はしていないだろうなー

信長が最も愛した妻生駒吉乃いこまきつのの墓がある久昌寺。(wikipedia)

濃姫死亡説

濃姫は信長と結婚してすぐに亡くなったために歴史書にでてこないのではないかといわれています。

ただ本能寺の変を描いた浮世絵には、薙刀をもって戦う女性が描かれています。これは濃姫ではないかといわれていますが、真相は謎です。

ひろ
ひろ

本能寺の変で戦ったのは創作だといわれているよ

本能寺の変。後の時代に描かれた創作といわれている。(本能寺焼討之図)

濃姫生存説

歴史書「言継卿記」には、信長が将軍足利義昭を上洛させたころの記述に「信長本妻」という記述があります。

また、江戸時代に書かれた「明智軍記」には「信長内室」が家臣たちを労ってたくさんアワビを振る舞ったという記録が残っています。

徳川家康
徳川家康

「内室」とは身分の高い女性のことを表しておる

さらに織田信雄に仕えていた家臣団の名簿があり、織田家中の所領分配について記された箇所には、「安土殿」という名前があります。

これらは濃姫を表しているのではないかといわれています。そのため、濃姫は信長の天下統一を支えていたのではないでしょうか?

ひろ
ひろ

秀吉の妻ねねのように家臣団をまとめて

信長の補佐をしていたんじゃないかなー?

濃姫は明智光秀と恋仲!?

濃姫と明智光秀は家系図の通り、いとこの関係であったといわれています。光秀と濃姫は7歳差でしたが、光秀は斎藤道三の近習であったため濃姫と親密な関係だったようです。

光秀と濃姫の間にはこんな逸話があります。

いとこ同士で仲がよかった2人ですが、政略結婚により引き裂かれてしまいます。そして本能寺の変で濃姫は光秀に味方。その後は光秀とともに、、、

ひろ
ひろ

濃姫に関する書物が残っていないから

のちの人が好きに創作したんやろなー

明智光秀。愛妻家で側室はいなかったという。(本徳寺蔵)

まとめ

濃姫斎藤道三の子として生まれたことにより、波瀾万丈の生涯でした。そんな濃姫にはこんな逸話が残っています。

道三が濃姫を信長のもとへ嫁がせるとき、道三は

「信長は本当にうつけだったら、この短刀で刺せ」

と濃姫にいったそうです。

徳川家康
徳川家康

戦国時代の女性は生家の方を大切にするからのー

コメント

タイトルとURLをコピーしました