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[大河ドラマ・どうする家康38話]阿茶局・雲光院(キャスト:松本若菜)は徳川家康に最も愛された側室!?大坂の陣の交渉役?読み方は? 年表 家系図

ひろ
ひろ

大河ドラマ・どうする家康」で登場する阿茶局

松本若菜さんが演じている徳川家康側室ですね

徳川家康
徳川家康

大坂の陣徳川方交渉役として重要な役割を果たし

徳川政権を支えてくれたんじゃよ

ひろ
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それほど、徳川家康から信頼されていたんですね

阿茶局の生涯を覗いてみましょう

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阿茶局の年表

年表年齢出来事
15541飯田直政の娘として誕生
1574?21?神尾忠重に嫁ぐ
????2人の子を出産する
157724夫・神尾忠重が亡くなる
157926徳川家康に仕える
158431小牧長久手の戦いの陣中で懐妊するも流産する
158936於愛の方に代わって徳川秀忠と松平忠吉を養育する
????奥のことを徳川家康から任される
161461大坂冬の陣で徳川方として交渉役に挑む
161663徳川家康の死後に雲光院と号する
162067徳川和子を入内させる手筈を整える
163783享年83

阿茶局の家系図

阿茶局と茶阿局は別人?

阿茶局の本名は不明で、そのためドラマや小説などでは通称の「阿茶局」が用いられています。また、雲光院」という名前は、阿茶局が徳川家康の死後に建立した寺から取られており、自身も「雲光院」と号しました

ひろ
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女性の名前は不明なことが多いですよね、、、

なお、徳川家康には「茶阿局」という名前が似た別の側室も存在しました。茶阿局は聡明な女性として知られ、徳川家康から深く愛されていました。茶阿局は松平忠輝松平松千代の実母でもあります。

ひろ
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茶阿局は夫が代官に誅殺されたことを

鷹狩り中の徳川家康に直談判したようです

阿茶局は武田家臣の子

阿茶局・雲光院(演 : 松本若菜)は、飯田直政の娘として生まれました。飯田直政は甲斐(山梨県)を拠点に、武田信玄(演 : 阿部寛)に仕える武将でした。武田信玄と今川義元(演 : 野村萬斎)が同盟を結んだため、武田信玄の了解のもと、飯田直政は娘の阿茶局を今川家臣の神尾忠重に嫁がせました。

ひろ
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阿茶局は武田家臣の子だったんですね

徳川家康
徳川家康

わしは武田旧家臣をどんどん取り込んだんじゃよ

阿茶局の前半生

神尾忠重と結婚した阿茶局は、2人の息子・神尾守世神尾守繁を出産しました。ところが、結婚してわずか3年後に夫・神尾忠重は亡くなりました。

ひろ
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神尾忠重は今川家の没落後は

武田二十四神将の1人でもある一条信龍に仕えていました

2年後のこと、阿茶局は徳川家康(演 : 松本潤)に召し抱えられました。同時期、息子の神尾守世も徳川秀忠(演 : 森川ウィン)の小姓として仕えるようになりました。阿茶局は徳川家康の戦に供奉し、小牧長久手の戦いで懐妊したものの、流産してしまいました。

ひろ
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徳川家康が未亡人ばかりを側室にしたのは

性病対策や子ができやすいことなどの理由があったようです

阿茶局が徳川家康から重用された訳

ひろ
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阿茶局は徳川家康の側室だったのだから

子を産むことが役割なのに

それ以外の仕事も任されたのはどうしてでしょうか?

阿茶局は他の側室と比べ、その能力が特に抜きん出ていたと言われます。このため、徳川家康の装束を選ぶという重要な役割を担っていました。

徳川家康
徳川家康

他国の代表と相対するときに服装は非常に重要なポイントじゃな

さらに、甲冑を身に纏い、徳川家康とともに戦場を駆け巡ったほか、於愛の方(演 : 広瀬アリス)の死後、徳川秀忠松平忠吉の母親代わりとして彼らを養育しました。また、徳川家の奥向きも任されていたようです。

ひろ
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「どうする家康」でも甲冑姿の衣装が公開されていましたね

阿茶局は大坂の陣の交渉役も務めた!?

阿茶局は大名間の仲裁を得意としていたと言われています。その中でも、大坂冬の陣での豊臣方との交渉は、阿茶局の最大の功績とされています。

ひろ
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阿茶局は寧々・北政所と役割が似ていたのかもしれませんね

1614年、徳川家康は上洛要請に応じない豊臣家に対して、大坂冬の陣を仕掛けました。この戦では、両軍が多数の兵を動員し、大坂城の守備が堅固であったため、徳川方も豊臣方も和睦を求めていました。そんな中、阿茶局は徳川家康の命令により、本多正信(演 : 松山ケンイチ)の息子・本多正純(演 : 井上祐貴)と共に、豊臣方の初・常高院(茶々の妹)大蔵卿局(茶々の乳母)との間で和睦交渉を実施しました。この交渉の結果、徳川と豊臣の間で和睦が成立し、大坂冬の陣は集結しました。

ひろ
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阿茶局は戦国時代のキャリアウーマンですよね

阿茶局は徳川家康の死後も活躍していた

徳川家康の死後、阿茶局は300石を与えられました。また、江戸に「雲光院」という寺社を建立し、自身は「雲光院」と号しました。しかし、徳川家康の遺言に従い、阿茶局は剃髪せずに徳川秀忠の補佐を務め、秀忠が亡くなるまでその役職を全うしました

ひろ
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徳川家光からも信頼されていて

手厚い処遇を受けていたようです

1620年、徳川秀忠の娘・和子後水尾天皇のもとに入内する際、阿茶局はその準備を整えました。その功績により、天皇から破格の「従一位」を授与され、「一位局」や「一位尼」と称されるようになりました。

ひろ
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「従一位」に叙された女性はわずか7人しかいません

ちなみに北政所も従一位を与えられています

ひろ
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