
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する阿茶局は
松本若菜さんが演じている徳川家康の側室ですね

大坂の陣で徳川方の交渉役として重要な役割を果たし
徳川政権を支えてくれたんじゃよ

それほど、徳川家康から信頼されていたんですね
阿茶局の生涯を覗いてみましょう
阿茶局の年表
年表 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1554 | 1 | 飯田直政の娘として誕生 |
1574? | 21? | 神尾忠重に嫁ぐ |
?? | ?? | 2人の子を出産する |
1577 | 24 | 夫・神尾忠重が亡くなる |
1579 | 26 | 徳川家康に仕える |
1584 | 31 | 小牧長久手の戦いの陣中で懐妊するも流産する |
1589 | 36 | 於愛の方に代わって徳川秀忠と松平忠吉を養育する |
?? | ?? | 奥のことを徳川家康から任される |
1614 | 61 | 大坂冬の陣で徳川方として交渉役に挑む |
1616 | 63 | 徳川家康の死後に雲光院と号する |
1620 | 67 | 徳川和子を入内させる手筈を整える |
1637 | 83 | 享年83 |
阿茶局の家系図


阿茶局と茶阿局は別人?
阿茶局の本名は不明で、そのためドラマや小説などでは通称の「阿茶局」が用いられています。また、「雲光院」という名前は、阿茶局が徳川家康の死後に建立した寺から取られており、自身も「雲光院」と号しました。


女性の名前は不明なことが多いですよね、、、
なお、徳川家康には「茶阿局」という名前が似た別の側室も存在しました。茶阿局は聡明な女性として知られ、徳川家康から深く愛されていました。茶阿局は松平忠輝と松平松千代の実母でもあります。


茶阿局は夫が代官に誅殺されたことを
鷹狩り中の徳川家康に直談判したようです
阿茶局は武田家臣の子
阿茶局・雲光院(演 : 松本若菜)は、飯田直政の娘として生まれました。飯田直政は甲斐(山梨県)を拠点に、武田信玄(演 : 阿部寛)に仕える武将でした。武田信玄と今川義元(演 : 野村萬斎)が同盟を結んだため、武田信玄の了解のもと、飯田直政は娘の阿茶局を今川家臣の神尾忠重に嫁がせました。


阿茶局は武田家臣の子だったんですね


わしは武田旧家臣をどんどん取り込んだんじゃよ
阿茶局の前半生
神尾忠重と結婚した阿茶局は、2人の息子・神尾守世と神尾守繁を出産しました。ところが、結婚してわずか3年後に夫・神尾忠重は亡くなりました。


神尾忠重は今川家の没落後は
武田二十四神将の1人でもある一条信龍に仕えていました
2年後のこと、阿茶局は徳川家康(演 : 松本潤)に召し抱えられました。同時期、息子の神尾守世も徳川秀忠(演 : 森川ウィン)の小姓として仕えるようになりました。阿茶局は徳川家康の戦に供奉し、小牧長久手の戦いで懐妊したものの、流産してしまいました。


徳川家康が未亡人ばかりを側室にしたのは
性病対策や子ができやすいことなどの理由があったようです
阿茶局が徳川家康から重用された訳


阿茶局は徳川家康の側室だったのだから
子を産むことが役割なのに
それ以外の仕事も任されたのはどうしてでしょうか?
阿茶局は他の側室と比べ、その能力が特に抜きん出ていたと言われます。このため、徳川家康の装束を選ぶという重要な役割を担っていました。


他国の代表と相対するときに服装は非常に重要なポイントじゃな
さらに、甲冑を身に纏い、徳川家康とともに戦場を駆け巡ったほか、於愛の方(演 : 広瀬アリス)の死後、徳川秀忠と松平忠吉の母親代わりとして彼らを養育しました。また、徳川家の奥向きも任されていたようです。


「どうする家康」でも甲冑姿の衣装が公開されていましたね
阿茶局は大坂の陣の交渉役も務めた!?
阿茶局は大名間の仲裁を得意としていたと言われています。その中でも、大坂冬の陣での豊臣方との交渉は、阿茶局の最大の功績とされています。


阿茶局は寧々・北政所と役割が似ていたのかもしれませんね
1614年、徳川家康は上洛要請に応じない豊臣家に対して、大坂冬の陣を仕掛けました。この戦では、両軍が多数の兵を動員し、大坂城の守備が堅固であったため、徳川方も豊臣方も和睦を求めていました。そんな中、阿茶局は徳川家康の命令により、本多正信(演 : 松山ケンイチ)の息子・本多正純(演 : 井上祐貴)と共に、豊臣方の初・常高院(茶々の妹)と大蔵卿局(茶々の乳母)との間で和睦交渉を実施しました。この交渉の結果、徳川と豊臣の間で和睦が成立し、大坂冬の陣は集結しました。


阿茶局は戦国時代のキャリアウーマンですよね
阿茶局は徳川家康の死後も活躍していた
徳川家康の死後、阿茶局は300石を与えられました。また、江戸に「雲光院」という寺社を建立し、自身は「雲光院」と号しました。しかし、徳川家康の遺言に従い、阿茶局は剃髪せずに徳川秀忠の補佐を務め、秀忠が亡くなるまでその役職を全うしました。


徳川家光からも信頼されていて
手厚い処遇を受けていたようです
1620年、徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇のもとに入内する際、阿茶局はその準備を整えました。その功績により、天皇から破格の「従一位」を授与され、「一位局」や「一位尼」と称されるようになりました。


「従一位」に叙された女性はわずか7人しかいません
ちなみに北政所も従一位を与えられています


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