
大河ドラマ・どうする家康の第19話「お手つきしてどうする!」に登場する
お万の方(松井玲奈)の数奇な人生を見てみましょう

正室の瀬名の知らないところで側室を作り
子をもうけてしもうた、、、
お万の方の誕生
お万の方(長勝院・小督局)は1548年に三河(愛知県)で生まれた。池鯉鮒神社にて神主だった永見貞英の娘として誕生したと言われている。池鯉鮒神社は、現在の愛知県知立市にある知立神社である。
池鯉鮒神社は天皇家の流れを汲む由緒正しき神社と言われている。しかし戦国時代での三河は、今川義元と織田信秀・信長による侵攻で戦乱に巻き込まれた。そのせいで、池鯉鮒神社は2度も戦に巻き込まれ、今川に社殿を焼かれるなどの被害が出てた。
また、武家の水野家と婚姻関係を結んでおり、於万の方の母は水野忠政の娘ではないかと言われ、水野忠政は徳川家康の生母・於大の方の父であるため、お万の方と徳川家康は親戚関係にあると言われている。


お万の方と家康が親戚関係だったとは!!


お万の方の呼び名
お万の方についての呼び名は複数あり、「於古茶」「小督局」、「松」、「長勝院」がある。
徳川の家系図でも、女性の名前がきちんと書かれていることはほとんどない。そのため、「女」と書かれているか、夫亡きあとに出家や在家での仏門に入るため、「○○院」や「○○尼」と書かれている程度で、残されている文献や史書などから該当しそうな女性を判断するしかなく、側室となるとその本名をはっきりさせることは困難。


当時、女性の名前は夫と両親以外には知らせないことが一般的だったから
資料にも残っていないんだな
お万の方が徳川家康に出会うまで
お万の方に関する史料がほとんど残っていないため、どのような経緯で徳川家康の正室・瀬名(築山殿)の女中として働くことになったのかは不明である。しかし、於大の方の姪であることからもそれなりに優遇されていたのではないかと推察される。


それなりに優遇されないと
家康の目にも留まらないしなー
徳川家康とお万の方が出会った時期については不明だが、お万の方の子・結城秀康が生まれた時期は1574年とわかっているため、その頃に「お手つき」にしたのは確実である。


武田信玄との戦いの三方ヶ原の戦いで疲れて後だったから
瀬名に隠れてついに手を出してしもうたんじゃ
お万の方の懐妊
お万の方は懐妊したものの、徳川家康の正室・瀬名が側室と認めなかったため、居城の浜松城から追い出されてしまいました。
その後、生まれた子は男児の双子であったため、徳川家康は彼らを遠ざけてしまいました。当時、双子は「畜生腹」といわれ、忌み嫌われていました。畜生腹とは獣が一度に何匹も子を生むことからくる言葉であり、女性への暴言といわれる。
お万の方の子は嫌われてしまったため、生まれた息子のうちの1人は神社を相続する永見家へと養子にだされてしまいました。もう一方の子は徳川家康の次男・結城秀康となりますが、松平や徳川の姓を名乗ることは許されせんでした。


結城秀康は3歳になるまで家康と対面することができなかったんだよ
お万の方と正室・瀬名との関係
お万の方が妊娠したとき、徳川家康の正室・瀬名は激怒し、お万の方を裸にして庭の木にくくりつけたという逸話が残っている。


このシーンは大河ドラマでも描かれそうですね
また、正室・瀬名が激怒した理由は次のように考えられる。当時、大名や武士が子を残すために側室を多く娶ることは一般的だったが、正室はだれを側室にするかといった権限をもっていた。そのため、徳川家康が正室・瀬名に黙って側室を持ったため、正室・瀬名が激怒したと言われている。


しかし江戸時代になると
正室・瀬名の嫉妬などといわれるようになってしまったんだ
その後、正室・瀬名が亡くなると、お万の方は側室として認められた。
お万の方の晩年
2人の子は養子にだされてしまったために、お万の方の手元から離れてしまった。その間のお万の方の行方は不明だが、おそらく遠江(静岡県)の中村という者の家で暮らしていたという。


中村という者はお万の方の出産を手助けした人物だな
1600年、子の結城秀康が徳川家康に認められ、北ノ庄城に入ると、お万の方もこれに同行。このとき、お万の方は53歳で、実に20年ぶりに子の結城秀康とともに暮らすことができた。
しかし、母子の生活は長くは続かず、結城秀康は34歳で亡くなってしまう。このことにショックを受けたお万の方は徳川家康の許可も得ずに出家し、72歳まで北ノ庄で子どもたちの供養に励んだという。


もう1人の子・永見貞愛も31歳で亡くなってしまったんじゃ
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