
ねね(北政所)は豊臣秀吉の正室で
秀吉の天下統一を支えた人物やな

ねね殿なくして
秀吉殿の大出世はないじゃろなー

それにねねは多くの戦国大名を育てたから人望も厚かったよ
それではねねの生涯をみていこう!
ねねの年表




ねねは従一位という称号をもらっているけど、
これは女性に与えられる最高位で、実に500年ぶりのことだよ


宣教師ルイス・フロイスはねね殿のことを
「大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」と伝えておる


ねねの相関図




小早川秀秋はねねの甥だったよ


お金にだらしなかった秀秋はねね殿からよく借金していたそうじゃ


ねねの誕生
ねね(北政所、高台院)は織田家家臣の杉原定利と朝日殿の娘として誕生。1561年、ねねは豊臣秀吉に嫁ぐ際、母から身分の差で反対されるも、兄・木下家定の説得もあり無事に結婚しています。またこれは当時としては珍しい恋愛結婚でした。なお、朝日殿は秀吉が大名となっても2人の結婚を認めなかったといいます。


内助の功
主君・織田信長の勢力拡大に付き従った秀吉は1574年、近江長浜12万石(滋賀県)を与えられました。秀吉は合戦で長浜にいないことが多いため、ねねは城主代行として取り仕切ることもありました。また、ねねは秀吉の生母なか(大政所)と仲が良く、実の親子のように仲が良かったそうです。


前田利家夫妻とも仲がよくて
家族ぐるみの付き合いだったみたい
2人は仲睦まじかったものの、ねねは秀吉の女好きには悩んでいました。このことを主君・信長に相談すると、ねねを激励する手紙が届きます。しかもこれには、公文書を表す「天下布武」の朱印が押されており、ねねが読みやすいようにすべてひらがなで書かれていました。この手紙の内容から自信を取り戻したねねは正室として堂々と振る舞うようになり、秀吉の側室を取り仕切るようになります。


秀吉殿との間に子供ができないことを気にかけられていたのかもしれんの
本能寺の変が起こると、明智の軍勢は長浜城に侵攻。ねねは中国攻めで不在の秀吉に代わって、一族を引き連れて15キロも離れた寺へ逃げ込みました。
その後秀吉は着々と出世してゆき、大坂城を築城。秀吉が関白に任命されると、ねねも「北政所」の称号を賜っています。さらに天下人の妻として、朝廷との交渉を引き受け、人質として集められた諸大名の妻子を可愛がっていました。


この頃、ねねは便秘に苦しんでいたそうだよ


豊臣家の滅亡
秀吉と側室・淀殿の間に豊臣秀頼が誕生すると、豊臣家内で淀殿の影響力が増大してゆきます。そして豊臣秀吉が亡くなり、ねねと淀殿はともに秀頼の後見人となりました。秀吉亡き後、ねねは徳川家康に従うことが豊臣家の生き残りの道と考えていましたが、淀殿は秀頼こそ天下人と主張。このことで家康と淀殿の間に確執が生まれる原因となってしまいます。


ねねと淀殿は仲が悪かったといわれているけど
実際には役割分担していて仲は悪くなかったようだよ
関ヶ原の戦いが起こると、加藤清正や福島正則など、ねねに養育された大名たちがねねの元を訪れました。このとき、ねねは実力のある家康に味方するよう伝えたといわれています。
秀頼と千姫の婚儀を見届けた後に、ねねは剃髪し、高台寺を建立して仏門に入りました。このとき、家康からの資金援助を受けていたと言われています。その後大坂の陣が勃発すると、ねねは秀頼に大坂城から退却するように要求するも秀頼はこれを拒否したため、大坂城に乗り込もうと画策していました。ところが、ねねの影響力を恐れた家康に足止めされて、豊臣家の滅亡を見届けることとなってしまいます。


ねねは秀吉や大政所を弔うために仏門に入ったというよ

