鎌倉時代に武士が政権を握って以来、天皇の権威は落ちていたけど
戦国時代にはもうどん底だっただろうな
朝廷は経済的に逼迫しておったんじゃ
それを助けたのが信長や秀吉なのかー
それでは戦国時代の天皇の様子をみていこう!
武家政権での天皇とは?
源頼朝が武家政権である鎌倉幕府を起こして以来、日本を動かしていたのは武士でした。しかし、武士の最上位である征夷大将軍は天皇によって任命されます。つまり、武士たちは朝廷が長年に渡って日本の頂点に立っていることを鑑みて、天皇を畏怖すべき存在としていました。
もともと征夷大将軍は蝦夷(東北地方)を征伐するために天皇が任命する役職のことだよ
戦国時代の天皇とは?
戦国時代の天皇・正親町天皇は1517年、後奈良天皇の長男として誕生しました。このころ、応仁の乱によって京都は焼け野原となっており、日本は戦乱の世の中に突入。そのため、朝廷の収入源が少なく、天皇家といえど経済的に困窮していました。このことで、祖父・後柏原天皇、父・後奈良天皇は即位の礼すら行うことができない状況となってしました。
朝廷を支えていた室町幕府も崩壊しかけていて、日本中が荒れていたんだな
正親町天皇も祖父や父と同様に即位の礼を行うことができませんでしたが、毛利元就が経済的援助を施すことで、即位3年目にして儀式を執り行うことに成功しました。
元就殿は朝廷を支援することで
天下に名を知らしめたんじゃ
朝廷の権威を取り戻す!?
朝廷の権威に目をつけた織田信長は天下統一を成し遂げるため、将軍・足利義昭を上洛させます。翌年、正親町天皇の保護を大義名分に京都を制圧し、信長は経済的に天皇を支援するようになりました。
信長殿は正親町天皇から勅命(天皇の命令)を引き出すことで
合戦を有利に進められたんじゃ
正親町天皇と信長の関係は良好で、信長の合戦の度に天皇が戦勝祈願を行ったり、陣中見舞いを遣わしていました。さらに、東大寺正倉院に収蔵されていた香木の切り取りを許しています。これは朝廷が「天下人・織田信長」と認めていたことを意味します。
また、正親町天皇は生前に譲位し、若い帝の世を盤石にしたいと考えていました。ところが、援助を受けても儀式の費用を賄いきれませんでした。さらに、信長も家督を長男・信忠に譲ったばかりで、政権基盤が安定しておらずなかなか実現しませんでした。
天皇家と織田家との関係が整わないまま本能寺の変が起きてしまったんだ
豊臣政権を利用!?
信長が亡くなり豊臣に政権が移るも、豊臣秀吉は信長と同様に天皇へ経済的支援を行いました。秀吉は百姓の生まれで、なによりも朝廷の権威が欲しかったため天皇に接近してゆきます。
1585年に秀吉は五摂家の一つである近衛家の養子となり、関白に就任。さらに、秀吉は正親町天皇から「豊臣」の姓を賜り、太政大臣に就任しています。太政大臣は天皇に仕えるナンバー2であり、諸大名に対して豊臣の力を見せつける意味合いがありました。
秀吉が征夷大将軍にならなかったのは
源氏の血をひいていないからだな
まとめ
戦国時代の天皇である正親町天皇は有力な戦国大名の援助を受けながら、天皇の権威を取り戻してゆきました。また、秀吉の支援を受けて念願の譲位を果たし、朝廷の威信を回復しています。
戦国時代は資金不足で即位の礼を行えず、生前に譲位はできなかったけど
正親町天皇は天皇家を再興して、譲位を果たしたんだな