足利義昭は室町幕府の最後の将軍として有名やなー
その前半生は信長殿との対立じゃ
幕府の権威を使って大名を集めたんじゃな
その後は、信長に追われたんやなー
それでは足利義昭の生涯をみていこう!
足利義昭の年表
義昭は20年くらい寺の中で暮らしていたんやな!
戦国乱世でなければ、
僧として生涯を終えるはずじゃったんじゃー
足利義昭の相関図
最初の頃は、信長と義昭はかなり仲が良くて、
義昭は信長のことを「御父」と呼んでいたみたいやな
信長殿が義昭殿のために大きな屋敷を建てたり、
三好軍から守ったりしたからじゃろな
足利義昭の誕生
足利義昭は1537年、室町幕府12代目将軍・足利義晴の次男として生まれました。兄は13代目将軍・足利義輝。足利家では長男以外は出家することが慣例だったため、義昭は6歳の時に興福寺の僧となります。
出家することでお家騒動を防ぎ
幕府と寺との関係を強化したんじゃー
室町幕府将軍!!
1565年、13代将軍だった足利義輝が三好義継の謀反により討死。出家中の義昭も三好軍に捕らえられて幽閉されてしまいます。
このとき義昭が殺されなかったのは
三好家が興福寺を敵に回すことを恐れたからだというよ
義昭は細川藤孝などの義輝の側近たちを頼って脱出し、僧の身分を捨てて、室町幕府再興を決意します。そして義昭は有力大名を頼って、京都奪還を目指そうとしていましたが、越前(福井県)の朝倉義景はこれを拒否。困った義昭は勢力を拡大していた織田信長を頼ることになりました。
三好家が足利義栄を将軍に据えておったから
義昭殿は焦っておったんじゃ
義昭は細川藤孝や明智光秀を頼りながら、信長に接近。信長は三好家を駆逐し、足利義栄は亡くなったため、義昭は信長の後ろ盾を得ながら上洛。15代目将軍となります。義昭は幕府再興のため、幕府の重臣たちとの結びつきを強めます。
義昭は最後の将軍だから愚将というイメージが強いけど
そうでもないみたいやな
信長は室町幕府再興のため義昭を保護したのではなく、天下統一のため義昭を利用したのでした。そのため、義昭と信長は対立し始め、信長は「殿中御掟」という要望書を義昭につきつけます。これに怒った義昭は毛利、上杉、武田、本願寺などの大名を頼って信長包囲網を形成。
このときばかりはさすがの信長殿も肝を冷やしたじゃろな
強力な信長包囲網を形成した義昭でしたが、武田信玄が亡くなったことで包囲網はあっさりと崩れてしまいます。そこで義昭は信長と和睦しましたが、わずか3ヶ月で和睦を破って義昭は挙兵。ところが、信長に勝てるわけもなく京都から追放されてしまいました。
信長といえども将軍を殺めることはできなかったから、追放したんやなー
本当の信長は権威や伝統を否定するタイプではなかったかもしれないな
幕府再興を目指すも、、、
京都を追放された義昭は幕府再興のため各地を転々としました。そして毛利輝元を頼って備後(広島県)の鞆に鞆幕府を設立。再興を目指して期を伺っていると、本能寺の変で宿敵・信長が亡くなりました。そこで義昭は上洛を試みますが、失敗してしまいます。
義昭は幕府再興をなんとか成功させようと必死だな
このころには、義昭に同行していた家臣はほとんどいなかったみたいやな
豊臣秀吉が関白となり天下を取ると、義昭はようやく幕府再興を諦めて将軍職を辞し、出家しました。その後、元将軍ということで、秀吉に取り立てられ御伽衆となっています。
晩年は、秀吉と信長のことについて語っていたのかなー
まとめ
足利義昭は将軍として室町幕府の再興を志しましたが、織田信長の台頭により失敗してしまいました。一般的には義昭は能のない人物だととらえられていますが、実際には幕府譜代の大名との結びつきを強化するなど、有能な将軍でした。
信長から追放されても将軍を辞さなかったのは、
10代目・足利義稙が追放されても将軍に返り咲いたことを知っていたからだろうな