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[大河ドラマ・どうする家康]加藤清正(キャスト:淵上泰史) の死因は?熊本城は西郷隆盛も落とせなかった?虎退治伝説は本当?子孫 家紋 家系図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する加藤清正

池内万作さんが演じている豊臣秀吉の家臣ですね

徳川家康
徳川家康

加藤清正城作りの名人じゃな

関ヶ原の戦い後、豊臣家の再興を目指しておったから危険じゃった

ひろ
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加藤清正関ヶ原の戦いでは目立ちませんが

なにをしていたのでしょう?

それに朝鮮での虎退治は本当なのでしょうか?

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加藤清正の年表

年表年齢出来事
15621尾張に刀鍛冶職人の子として生まれる
15643父が亡くなる
157310豊臣秀吉の小姓となる
157613170石を与えられる
158221豊臣秀吉に従って山崎の戦いに出陣する
158322賤ヶ岳の七本槍に一人として3000石を賜る
158524豊臣秀吉が関白に就任すると従五位下に任ぜられる
158827肥後19万5千石を賜る
159130熊本城を改築する
159231文禄の役に出陣し明国まで攻め込んだ
159332文禄の役で明国まで攻め込む
159332石田三成の讒言により謹慎させられる
159635慶長伏見大地震のときに豊臣秀吉の救出に向かう
159736慶長の役
159837豊臣秀吉が亡くなると徳川家康の養女を継室とする
159938福島正則らとともに石田三成邸を襲撃する
160039関ヶ原の戦いで九州の西軍勢と戦う
160342豊臣姓を賜る
161049名古屋城の普請に協力する
161150豊臣秀頼と徳川家康の会見の実現に貢献
161150二条城からの帰国途中に亡くなる

加藤清正の家系図

加藤清正は不明な点の多い前半生

加藤清正(演 : 淵上泰史)は1562年、尾張(愛知県)刀鍛冶職人・加藤清忠の子として生まれました。母・伊都豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)母・大政所(演 : 高畑淳子)と遠戚であったことから、近江長浜城の城主となったばかりの豊臣秀吉に小姓として仕えました。

ひろ
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加藤清正の生まれは武士ではないんですね

加藤清正は豊臣秀吉のもとで合戦に出陣し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いに出陣しました。賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳七本槍」の一人として3000石の所領を与えられました。

ひろ
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七本槍に挙げられたのは福島正則、加藤嘉明、脇坂安治などの武将ですね

豊臣秀吉が九州平定すると、加藤清正は肥後(熊本県)北半国19万5千石を任せられ、熊本城の城主となりました。以前、肥後は佐々成政が治めていましたが、国人一揆を鎮圧することができずに失脚しました。加藤清正はこれを抑え込みました。

ひろ
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肥後の南半国を治めたのは小西行長

ライバル関係にあったようです

加藤清正の虎退治伝説は本当だった?

加藤清正の虎退治

ある時、加藤清正の軍勢が山の麓で陣を張っていると、夜中に大きなが現れて、加藤軍の馬を奪って逃げていきました。これを知った加藤清正は激怒しました。ところが次の日には、加藤清正の家来も虎に襲われてしまいました。

そこで加藤清正は虎退治を決意し、家臣とともに山を捜索しました。加藤清正は虎をみつけると火縄銃を撃ち放ち、たった一発で虎をしとめました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

加藤清正の幼名は「虎千代」という

何かと「」と関係の深いやつじゃ

豊臣秀吉は虎の脳みそが欲しかった

天下を制した豊臣秀吉は、何もかもを手にいれましたが、子どもだけを持たなかった。ところが、豊臣秀吉が56歳のとき、側室の茶々・淀殿(演 : 北川景子)豊臣秀頼(演 : 作間龍斗)を出産しました。これを受けて、豊臣秀吉は長生きをしたいと考え、長寿には「虎の脳ミソ」が効くと主治医から知りました

その当時、大名たちは朝鮮に出陣しており、朝鮮には虎がたくさん生息していました。これを好機と考えた豊臣秀吉は大名たちに虎狩りを行わせたといいます。

豊臣秀吉の虎狩り命令により、加藤清正だけでなく、黒田長政島津義弘も虎狩りをおこない、豊臣秀吉に虎の肉や皮を送りました。豊臣秀吉は虎の肉を食しましたが、効果はなく、結局61歳で亡くなってしまいました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

大名たちが虎退治しすぎたせいで

朝鮮半島では虎が激減したんじゃ

図のような一騎打ちは行われず、火縄銃によって討ち取った。(和唐内虎狩図)

加藤清正はなぜ関ヶ原の戦いに出陣できなかったのか?

豊臣秀吉が亡くなると、加藤清正五大老筆頭徳川家康に接近しました。正室が亡くなっていたため、加藤清正は水野家の娘で徳川家康養女かな・清浄院継室としました。さらに、朝鮮出兵の際には不仲となった石田三成を襲撃し、蟄居に追い込みました。

ひろ
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加藤清正や福島正則は徳川家康に急速に接近していますね

しかし、関ヶ原の戦いの直前に、加藤清正と徳川家康の関係は悪化しました。その原因は、加藤清正が島津重臣で反乱軍の一員である伊集院忠真に味方したことです。徳川家康からすると、反乱軍に味方する加藤清正は国内の平和を乱す要因と見なされ、上洛を禁じられました。

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島津家内の内乱の原因は主君が重臣を誅殺したことで始まったため

加藤清正は義を通すために反乱軍に与したのかもしれません

加藤清正の不仲と家康の関係は、会津征伐に出陣できない状況に発展し、西軍の大名に味方する可能性を考えました。しかし、徳川家康石田三成挙兵を知ると、加藤清正を東軍への参加を認め、九州の西軍の大名に対抗するよう指示しました。加藤清正は西軍の諸将を破り、関ヶ原の戦いの後には肥後52万石を与えられ、徳川家康からの許しを得ました。

ひろ
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加藤清正は小西行長の宇土城と立花宗茂の柳川城を開城させています

加藤清正は最後は毒饅頭で亡くなった!?死因は?

徳川家康江戸幕府を開くと、多くの大名が羽柴姓豊臣姓を返上しましたが、加藤清正は1603年に豊臣姓を賜りました。この行動は、加藤清正が主君を徳川ではなく、依然として豊臣であるとの立場を示すものとされています。

一方、1606年には加藤清正の娘、あま・本浄院が徳川四天王の榊原康政(演 : 杉野遥亮)の嫡男、榊原康勝に嫁ぎ、徳川家との関係を保持しました

ひろ
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加藤清正は豊臣徳川の関係を取り持つ重要な武将だったんでしょうね

1611年、徳川家康が上洛した際、加藤清正は豊臣秀頼徳川家康との間を取り持ち、二条城で会見を成功させました。この際、加藤清正は豊臣家を守るため、短刀を懐に忍ばせ、徳川家康が何か異常な行動をとった場合、刺し違える覚悟を持っていたという逸話が残っています

ひろ
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豊臣秀頼がこの会見を断れば

徳川家康は豊臣家征伐に動くと考えていたために

必死に茶々・淀を説得したようです

しかしながら、この会見後、加藤清正は帰国の途中で病に倒れ、急逝しました。加藤清正の急死から、会見中の二条城で毒によって暗殺されたのではないかとの噂も立ちました

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