
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する加藤清正は
池内万作さんが演じている豊臣秀吉の家臣ですね

加藤清正は城作りの名人じゃな
関ヶ原の戦い後、豊臣家の再興を目指しておったから危険じゃった

加藤清正は関ヶ原の戦いでは目立ちませんが
なにをしていたのでしょう?
それに朝鮮での虎退治は本当なのでしょうか?
加藤清正の年表
年表 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1562 | 1 | 尾張に刀鍛冶職人の子として生まれる |
1564 | 3 | 父が亡くなる |
1573 | 10 | 豊臣秀吉の小姓となる |
1576 | 13 | 170石を与えられる |
1582 | 21 | 豊臣秀吉に従って山崎の戦いに出陣する |
1583 | 22 | 賤ヶ岳の七本槍に一人として3000石を賜る |
1585 | 24 | 豊臣秀吉が関白に就任すると従五位下に任ぜられる |
1588 | 27 | 肥後19万5千石を賜る |
1591 | 30 | 熊本城を改築する |
1592 | 31 | 文禄の役に出陣し明国まで攻め込んだ |
1593 | 32 | 文禄の役で明国まで攻め込む |
1593 | 32 | 石田三成の讒言により謹慎させられる |
1596 | 35 | 慶長伏見大地震のときに豊臣秀吉の救出に向かう |
1597 | 36 | 慶長の役 |
1598 | 37 | 豊臣秀吉が亡くなると徳川家康の養女を継室とする |
1599 | 38 | 福島正則らとともに石田三成邸を襲撃する |
1600 | 39 | 関ヶ原の戦いで九州の西軍勢と戦う |
1603 | 42 | 豊臣姓を賜る |
1610 | 49 | 名古屋城の普請に協力する |
1611 | 50 | 豊臣秀頼と徳川家康の会見の実現に貢献 |
1611 | 50 | 二条城からの帰国途中に亡くなる |
加藤清正の家系図


加藤清正は不明な点の多い前半生
加藤清正(演 : 淵上泰史)は1562年、尾張(愛知県)に刀鍛冶職人・加藤清忠の子として生まれました。母・伊都が豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)の母・大政所(演 : 高畑淳子)と遠戚であったことから、近江長浜城の城主となったばかりの豊臣秀吉に小姓として仕えました。


加藤清正の生まれは武士ではないんですね
加藤清正は豊臣秀吉のもとで合戦に出陣し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いに出陣しました。賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳七本槍」の一人として3000石の所領を与えられました。


七本槍に挙げられたのは福島正則、加藤嘉明、脇坂安治などの武将ですね
豊臣秀吉が九州平定すると、加藤清正は肥後(熊本県)の北半国19万5千石を任せられ、熊本城の城主となりました。以前、肥後は佐々成政が治めていましたが、国人一揆を鎮圧することができずに失脚しました。加藤清正はこれを抑え込みました。


肥後の南半国を治めたのは小西行長で
ライバル関係にあったようです
加藤清正の虎退治伝説は本当だった?
加藤清正の虎退治
ある時、加藤清正の軍勢が山の麓で陣を張っていると、夜中に大きな虎が現れて、加藤軍の馬を奪って逃げていきました。これを知った加藤清正は激怒しました。ところが次の日には、加藤清正の家来も虎に襲われてしまいました。
そこで加藤清正は虎退治を決意し、家臣とともに山を捜索しました。加藤清正は虎をみつけると火縄銃を撃ち放ち、たった一発で虎をしとめました。


加藤清正の幼名は「虎千代」という
何かと「虎」と関係の深いやつじゃ
豊臣秀吉は虎の脳みそが欲しかった
天下を制した豊臣秀吉は、何もかもを手にいれましたが、子どもだけを持たなかった。ところが、豊臣秀吉が56歳のとき、側室の茶々・淀殿(演 : 北川景子)が豊臣秀頼(演 : 作間龍斗)を出産しました。これを受けて、豊臣秀吉は長生きをしたいと考え、長寿には「虎の脳ミソ」が効くと主治医から知りました。
その当時、大名たちは朝鮮に出陣しており、朝鮮には虎がたくさん生息していました。これを好機と考えた豊臣秀吉は大名たちに虎狩りを行わせたといいます。
豊臣秀吉の虎狩り命令により、加藤清正だけでなく、黒田長政、島津義弘も虎狩りをおこない、豊臣秀吉に虎の肉や皮を送りました。豊臣秀吉は虎の肉を食しましたが、効果はなく、結局61歳で亡くなってしまいました。


大名たちが虎退治しすぎたせいで
朝鮮半島では虎が激減したんじゃ


加藤清正はなぜ関ヶ原の戦いに出陣できなかったのか?
豊臣秀吉が亡くなると、加藤清正は五大老筆頭の徳川家康に接近しました。正室が亡くなっていたため、加藤清正は水野家の娘で徳川家康の養女かな・清浄院を継室としました。さらに、朝鮮出兵の際には不仲となった石田三成を襲撃し、蟄居に追い込みました。


加藤清正や福島正則は徳川家康に急速に接近していますね
しかし、関ヶ原の戦いの直前に、加藤清正と徳川家康の関係は悪化しました。その原因は、加藤清正が島津重臣で反乱軍の一員である伊集院忠真に味方したことです。徳川家康からすると、反乱軍に味方する加藤清正は国内の平和を乱す要因と見なされ、上洛を禁じられました。


島津家内の内乱の原因は主君が重臣を誅殺したことで始まったため
加藤清正は義を通すために反乱軍に与したのかもしれません
加藤清正の不仲と家康の関係は、会津征伐に出陣できない状況に発展し、西軍の大名に味方する可能性を考えました。しかし、徳川家康が石田三成の挙兵を知ると、加藤清正を東軍への参加を認め、九州の西軍の大名に対抗するよう指示しました。加藤清正は西軍の諸将を破り、関ヶ原の戦いの後には肥後52万石を与えられ、徳川家康からの許しを得ました。


加藤清正は小西行長の宇土城と立花宗茂の柳川城を開城させています
加藤清正は最後は毒饅頭で亡くなった!?死因は?
徳川家康が江戸幕府を開くと、多くの大名が羽柴姓や豊臣姓を返上しましたが、加藤清正は1603年に豊臣姓を賜りました。この行動は、加藤清正が主君を徳川ではなく、依然として豊臣であるとの立場を示すものとされています。
一方、1606年には加藤清正の娘、あま・本浄院が徳川四天王の榊原康政(演 : 杉野遥亮)の嫡男、榊原康勝に嫁ぎ、徳川家との関係を保持しました。


加藤清正は豊臣と徳川の関係を取り持つ重要な武将だったんでしょうね
1611年、徳川家康が上洛した際、加藤清正は豊臣秀頼と徳川家康との間を取り持ち、二条城で会見を成功させました。この際、加藤清正は豊臣家を守るため、短刀を懐に忍ばせ、徳川家康が何か異常な行動をとった場合、刺し違える覚悟を持っていたという逸話が残っています。


豊臣秀頼がこの会見を断れば
徳川家康は豊臣家征伐に動くと考えていたために
必死に茶々・淀を説得したようです
しかしながら、この会見後、加藤清正は帰国の途中で病に倒れ、急逝しました。加藤清正の急死から、会見中の二条城で毒によって暗殺されたのではないかとの噂も立ちました。


加藤清正の死因はハンセン病だったとも言われています
加藤清正は痔持ちだった!?
加藤清正は痔に悩まされていました。その症状はとてもひどく、トイレに一度行くとなかなか戻ってきませんでした。そのため、家臣をトイレの前に呼び寄せて、トイレの中から命令を出していました。


トイレに長くこもったら
さらに痔が悪化するから危険じゃな
加藤清正の家紋
蛇の目紋


加藤清正の家紋は「蛇の目」として知られています。この家紋は、その名の通り蛇の目に似た模様から名づけられました。また、この家紋は「弦巻紋」とも呼ばれ、弓の弦を巻きつける道具を象徴する意匠で、武士の武道精神と力強さを表現しています。
桔梗紋


加藤清正は、調度品に「桔梗紋」を用いました。この紋は、肥後に入る前に豊臣秀吉から贈られた調度品に含まれていたものでした。また、この桔梗紋は明智光秀(演 : 酒向芳)や坂本龍馬なども使用しており、よく知られた家紋です。
加藤清正の城
熊本城


加藤清正は、1591年から隈本城のあった地に熊本城の築城を始めました。天守は1600年頃に完成し、城自体は1606年に完成し、「隈本」から「熊本」に改名されました。熊本城には「清正流石垣」と呼ばれる石垣があり、下部から上部に向かうにつれて急峻で反り返っています。
加藤清正が生存中に熊本城が攻撃を受けたことはありませんでしたが、270年後の西南戦争で西郷隆盛が熊本城を攻囲した際、城は成功裏に守り抜かれました。この時、西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたとでごわす」と述べたと言われています。


始めは石垣を登れるくらいだけど、
段々登れないくらいの勾配になり苦しくなったときに
狙い撃ちされるという仕組みですね
名護屋城


名護屋城は朝鮮出兵の要所として築かれた城です。この城は、豊臣秀吉の命を受けて、黒田官兵衛や加藤清正など九州の大名が普請事業に協力しました。1592年、大名たちの分担により、名護屋城はわずか半年で完成しました。名護屋城は、大坂城と同様に非常に広大な城であったとされています。


朝鮮には20万の兵が渡り
10万の兵が名護屋城にいたそうなので
30万もの兵を名護屋城に集まったようです
名古屋城


名古屋城は織田信長の生誕の地・那古野城の跡地に徳川家康が尾張徳川義直のために築いた城です。徳川家康は全国の大名を集めて普請事業に従事させ、その中に加藤清正がいました。加藤清正は高度な技術な必要な天守台の石垣造りを受け持ちました。


名古屋城の普請には延べ558万人が動員されたぞ


名古屋城造りのときに福島正則が愚痴をこぼしたとき
加藤清正は領地に戻って徳川をたたく準備をせよといったそうです
加藤清正の子孫
加藤清正は3男2女の子に恵まれました。
長男 : 虎熊
資料があまりないことから夭折したと考えられています。
次男 : 加藤忠正
1599年に生まれました。江戸時代には徳川家へ人質として過ごしましたが、疱瘡を患い9歳で亡くなりました。


戦国時代は幼くして亡くなってしまう人が多いので
残念です
三男 : 加藤忠広
加藤清正の三男で兄が若くして亡くなったため、加藤家の当主となりました。加藤清正は1611年に急死したために11歳で当主となったことや、気性が荒く家中を上手くまとめることができませんでした。そのことが影響したのか、加藤家は徳川家光により改易されてしまいました。


徳川家が豊臣と縁深いために気に食わなかった説や
加藤忠広が徳川家光の弟の徳川忠長と仲が良かったことが原因とも言われています
加藤忠広は肥後52万石から出羽1万石となりました。改易後も和歌や文学にふけて悠々自適に暮らしていたようです。加藤忠広の長男は蟄居させられ、次男には後継者がいなかったことから、加藤家は途絶えてしまいました。


加藤家の分家は大勢いるようなので
現在にも加藤家の人たちはいそうですね


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