馬場信春は武田四天王の1人で
武田家三代に仕えた武将だな
40数年間70回以上もの戦いに出陣したが
かすり傷一つも負わなかったんじゃよ
常に前線で戦ってたのにすごいよなー
それでは馬場信春の生涯をみていこう!
馬場信春の年表
馬場信春には2人の師匠がいて
築城の技術は山本勘助から教わったそうだよ
兵法は小幡虎盛からたたきこまれたんじゃ
馬場信春の誕生
馬場信春は1514年、教来石信保の子として生まれました。馬場氏は甲斐(山梨県)の守護大名である武田氏の譜代ですが、信春が生まれた教来石氏で、信春は馬場氏の後を継いで馬場信春と名乗るようになりました。
1531年、信春の初陣は信濃の諏訪頼満が甲斐へ侵攻してきた時でした。18歳の信春はこの戦いで手柄を挙げて、武田信虎の親衛隊に抜擢されています。
武田信玄の初陣にも出陣して
敵将を討ち取るという功績をあげておる
最強武田軍団!!
信春は落ち着いた人格者であったため順調に出世してゆきました。1541年、粗暴な振る舞いが多く、家臣の信頼を失っていた武田信虎は、家臣の支持を受けた武田信玄により追放されてしまいます。この時、信春は譜代家臣と協力して信玄を武田家当主へと押し上げています。
このころに信春は馬場家の後を継いだぞ
武田信玄と上杉謙信が何度も戦った川中島の戦いでは、信春も武田軍として出陣。中でも第四次川中島の戦いは壮絶なものでした。軍師・山本勘助は兵を二手に分けて挟み撃ちにするキツツキ戦法を提案し、武田軍はこの作戦のもと進軍。
ところが、軍神・上杉謙信には見破られ、武田軍は大混乱。山本勘助は作戦の責任をとって敵軍に突っ込み討ち死に。信春は窮地に陥っていた武田の部隊を救援して、なんとか難を逃れました。
川中島の戦いでは信春はあまり活躍しておらんのじゃ
1571年、足利義昭は織田信長の圧力を弱めるべく信長包囲網を形成。これに従った武田信玄は徳川領に侵攻し三方ヶ原の戦いを起こします。信玄率いる武田騎馬隊は怒涛の勢いで攻め寄せ、徳川軍は大敗を喫し、家康は命からがら逃げのびました。信春は敗走する家康を浜松城まで追撃しましたが、あと一歩のところで取り逃してしまいました。
合戦後、信春は戦場に倒れた徳川の兵をみて、
「三河武士は皆、武田の方に向かって倒れている。誰一人、逃げようとする者はいなかった。」
と褒め称えたというよ
当主が武田勝頼になるも、、、
三方ヶ原の戦いの頃から主君・武田信玄の体調が思わしくなく、病気で亡くなってしまいます。その後を継いだのは四男の武田勝頼。
四男の勝頼が継いだのは、長男・義信が今川攻めに反対したことから廃嫡されていて
次男と三男は身体が弱かったからだよ
偉大な父の後を継いだ勝頼に対する目は厳しいものでした。特に親の代からの古参家臣には立場が上でも頭があがりません。そのため、勝頼の周りには若い家臣が集まるようになります。そうして、信春などの信玄と歴戦を戦ってきた譜代の家臣たちと勝頼や若い家臣との間で亀裂が入るようになりました。
偉大な父の子に生まれたら絶対に損だな
ついに主君・武田勝頼は織田信長と長篠の戦いを起こします。信春や山縣昌景は織田の大軍が鉄砲を持って進軍していることをみて、勝頼に撤退を進めます。ところが、勝頼は何としても信玄より実力があるところを見せたくて聞く耳を持ちません。
勝頼と譜代家臣との間の信頼関係が整っていない状態で
長篠の戦いに挑んでおった