関ヶ原の戦いで小早川秀秋が裏切ったから、西軍は負けてしまったとよく言われるけど
真犯人は吉川広家かもしれないぞ
毛利家の武将じゃな
西軍はまとまっておらんのー
今回は関ヶ原の戦いの勝敗を左右したといわれる
吉川広家を紹介していきます
吉川広家の年表
吉川広家も波乱万丈な人生を送ってるよ
吉川広家の誕生
吉川家の当主!!
1583年には人質として豊臣秀吉のもとへ送られていますが、なぜかたった2ヶ月で帰国させられています。その後、九州征伐中に父と兄が亡くなったことで、吉川家の家督を継ぎ吉川広家と名乗り始めました。さらに、秀吉の養女・宇喜多直家の娘を正室に迎え入れるなど、豊臣政権でも重役を担うようになって力をつけてゆきます。
広家はこの正室を大事にして
継室を設けなかったんじゃ
1591年には、月山富田城を賜り14万石の大名にまでのぼり詰めています。そして、叔父・小早川隆景ともに朝鮮に出陣。慶長の役では、加藤清正を救うために敵軍に突撃するという勇猛な一面をみせました。
加藤清正と立花宗茂から戦いぶりを称賛されたみたい
宰相殿の空弁当
小早川隆景が亡くなると、毛利家を支える重役が一気に広家に集中します。広家はそれに応えるべく、毛利家繁栄のために動き始めました。
さあ、ここからが吉川広家の注目ポイント
広家は「東軍に従うべき」と輝元に進言していましたが、毛利の外交僧・安国寺恵瓊に丸め込まれてしまい、輝元は関ヶ原の戦いの総大将となってしまいました。
広家は困り果て、仲の良い黒田長政に通じて徳川家康に接近しました。そして、「輝元は恵瓊に担がれただけ」と説明し、毛利の領土を安堵してもらえるように取り付けます。
吉川広家は東軍につきたかったんじゃな
豊臣を裏切りおって、、、
黒田長政は小早川秀秋の裏切り工作を担当した武将でもあるよ
そして、関ヶ原の戦いの時。毛利隊は毛利秀元を大将に広家が先鋒となり、徳川本陣の背後に陣取りました。秀元はかなりやる気でしたが、広家は家康と内通していたため、軍を動かす気などありません。
広家は秀元からすぐに出陣するよう要請されますが、「霧が濃すぎる」といって、出撃しません。さらに西軍の諸将からの使いからもたびたび出撃要請を出されますが、「兵に弁当を食わせておるので、、、」と苦し紛れの言い訳。これが「宰相殿の空弁当」といわれる有名なエピソードとなりました。
関ヶ原で毛利が動かないのは広家のせいか、、、
結局、関ヶ原の戦いは小早川秀秋の裏切りによって東軍の勝利が決まりました。広家は家康と内通していたため、「毛利の所領は安堵される」と考えていました。ところが、天下のたぬき親父は色々と難癖をつけだして輝元の所領を没収し、広家に周防と長門をやろうと言い始めました。
広家はすべて毛利のために働いていたためと家康に何度も嘆願し、家康は輝元に周防と長門を与えましたが、所領は112万石から30万石へと大幅な厳封となってしまいました。
毛利家内での広家の地位は地に落ちてしまった
結局、毛利秀元が毛利家内で権力を握るようになり、納得のいかない広家は隠居してしまいます。その後は岩国の開発を尽力し、65歳で生涯を終えました。
まとめ
吉川広家は関ヶ原の戦いで、西軍の武将であるにもかかわらず毛利隊の動きを足止めし、東軍勝利に貢献した武将でした。もし、広家が徳川本陣へ攻め込んでいれば、関ヶ原の行く末は変わっていたかもしれません。だからこそ、吉川広家は関ヶ原の戦いのキーマンなのです。
西軍の布陣はよかったかもしれないけど
仲が悪すぎるからダメだな