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[どうする家康・登場人物]歴史を変えた足軽・鳥居強右衛門(岡崎体育)はなにをした?

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する鳥居強右衛門

歌手の岡崎体育さんが演じている三河の足軽ですね

徳川家康
徳川家康

鳥居強右衛門は命をかけて

長篠城から岡崎城まで走った足軽なんじゃよ

ひろ
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まさに天下を変えた足軽!!

鳥居強右衛門とは一体どんな人物だったんでしょうか

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鳥居強右衛門とは!?

鳥居強右衛門とりいすねえもん(岡崎体育)は三河(愛知県)に農民の子として生まれといわれています。武士に憧れていた強右衛門は、近くの寺に弟子入りをして、学問や兵学を学びました。特に泳ぐことが非常に上手であったといわれています。また、自らを律するため、「勝商かつあき」っていう名前から「強右衛門」という名前に変更したそうです。

ひろ
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大河ドラマで描かれる「ろくでもなし鳥居強右衛門」とは違った性格ですね

その後、奥三河の武将奥平信昌おくだいらのぶまさ(白洲迅)の足軽として働くようになります。奥平家は小さな家で、三河と遠江(静岡県)、信濃(長野県)の国境にあったために今川家武田家など仕える主君をたびたび変更していましたが、最終的に徳川家康(松本潤)に翻りました。そして、徳川家康から長篠城を与えられ城主となります。

この頃、名将武田信玄(阿部寛)の後を継いだ武田勝頼(眞栄田郷敦)はどんどん西へ侵攻し、ついに信昌のいる長篠城にまで侵攻しました。

勝頼は2万ともいわれる軍勢を率いて、長篠城へ攻め込みました。しかし、長篠城は山と川に囲まれた難航不落の城でなかなか陥落しませんでした。

徳川家康
徳川家康

武田方の思惑としては、長篠城は三河侵攻の重要な拠点となるため

どうしても陥落されたかったんじゃ

ひろ
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一方奥平方としては、武田を裏切って徳川についた以上

なんとしてでも長篠城を守り抜かなければならなかったのです

鳥居強右衛門が立ち上がる!!

城がなかなか落ちないことにいらいらした武田勝頼は兵糧攻めを敢行。これにより、奥平軍の士気は一気に下がってしまいます。

ひろ
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兵糧攻め」は城への食料などの補給路を断ち切って

城を守る方の戦う気力を一気に失わせる戦法ですね

そこで信昌は軍議を開いて、次のように言いました。

兵糧がもうすぐで底をついてしまい、このままでは落城してしまう。

だれか家康様と信長様のいる岡崎城まで走って救援を求めよ

徳川家康
徳川家康

援軍要請をするにしても城の周りは完全に武田軍に囲まれていたから

なかなか志願するものはいなかったんじゃ

そのとき鳥居強右衛門が立ち上がり、この任務を引き受けます。鳥居強右衛門は足軽でしたが、彼の勇気と行動に感動した奥平信昌は強右衛門にすべてを託しました

ひろ
ひろ

大河ドラマ・どうする家康とは違いますが

鳥居強右衛門に対する書物があまりにも少ないのではっきりしていません、、、

そして真夜中、武田軍にばれないように長篠城を抜け出します。川を4キロ泳いで、雁峰山がんぼうざんのろしをあげると、一気に走り続けて岡崎城まで到着しました。長篠城から岡崎城まで50 kmほどをわすが半日で完走します。

ひろ
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のろしは仲間たちへの脱出の合図ですね

この当時は道が整備されていないし盗賊もいるし大変やっただったでしょうね

岡崎城に到着した鳥居強右衛門は徳川家康と織田信長に

長篠城は落城寸前で兵糧ももうすぐ底をつきます。一刻も早くご援軍をお願いします」

これを聞いた信長は今すぐ援軍を送ることに決め、強右衛門に休むよう命じます

しかし鳥居強右衛門は「仲間が待っている」といって、すぐに長篠城へ戻ることに決めました

ひろ
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強右衛門は本当に仲間思いな人物ですね

鳥居強右衛門が天下を変える!?

鳥居強右衛門は再び50 kmほどの道のりを走り、次の日には長篠城付近に到着。雁峰山でのろしをあげました。これをみた長篠城の兵士たちは歓喜し、一気に士気があがりました。

ところが武田勝頼は急に城内が湧き上がるという異変に気づくと、城周辺の見回りを強化。そして鳥居強右衛門は捕らえられ、武田勝頼に事の詳細を話すように要求されます。

武田勝頼は状況を知ると、「奥平軍に援軍は来ないと言えば、命を助けて武田家の家来にしてやろう

といいました。家族のいた強右衛門はこの提案を受け入れ、城の兵士に向かって「援軍はこない!」と叫ぶことになります。

徳川家康
徳川家康

自分の命を守るため、家族を守るため、寝返る武士は多かったんじゃ

ましてや当時は圧倒的に武田が有利じゃしな

強右衛門が捕まったことをみた奥平軍は「強右衛門が捕まった!?援軍は来ないのか」と不安になってしまいます。そして強右衛門はこう言います。

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みんなすまない捕まってしまった。だが大事なことを伝えなければならない。

援軍は来る!

二、三日の辛抱でござる。だから死ぬ気で守られよ

これを聞いた城兵たちは一気に歓声をあげます。

ひろ
ひろ

鳥居強右衛門は仲間を裏切らなかったんです!!

しかし、鳥居強右衛門は磔にされてしまい、槍で突かれて絶命してしまいます。これをみた奥平軍は強右衛門のためにも、命をかけて長篠城を守りきりました

その後織田徳川連合軍本隊が到着して、長篠設楽原の戦いが勃発。織田信長は大量の鉄砲を用いて武田勝頼に勝利しました。

徳川家康
徳川家康

強右衛門の行動には敵味方関係なく心を打たれたというぞ

ひろ
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武田家臣たちは鳥居強右衛門を磔にすることを拒んだそうだけど、武田勝頼は無視したそうです

そんな武士道に反するような行動をした武田勝頼に信頼をおけなくなった武田家臣はどんどん武田家から離反していきますね、、、

鳥居強右衛門の子孫は?

鳥居強右衛門の後は鳥居信商とりいのぶあきが後を引き継ぎました。鳥居信商は父の功により100石を与えられて、奥平信昌の次男・松平家治に仕えました。ところが、松平家治はわずか14歳で亡くなってしまったために、鳥居信商は奥平信昌のもとに戻ります。

ひろ
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奥平家の子なのに、松平家治と言われるのは

徳川家康の養子となったからですね

鳥居信商は奥平信昌に従って関ケ原の戦いに参戦すると、京都で西軍の首謀者の1人であった安国寺恵瓊あんこくじえけいの捕縛に成功しまし、200石に加増されました。その後、奥平信昌の子・松平忠明の家臣となりました。鳥居商次は奥平家の家老となるなど厚遇され、鳥居強右衛門の家系は現在も存続しています。

ひろ
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「強右衛門」という通称は代々引き継がれたそうです

鳥居強右衛門の相関図