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[どうする家康登場人物]徳川家康の継父・久松長家の数奇な人生とは?

戦国武将
ひろ
ひろ

久松長家といえば、「どうする家康」で

リリーフランキーさんが演じている戦国武将ですね

徳川家康
徳川家康

青年期のわしを支えてくれた重要人物なんじゃが

急遽、出奔してしもうたんじゃよ、、、

ひろ
ひろ

どうして久松長家は出奔してしまったのかを見ていきましょう!!

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久松長家の誕生

久松長家ひさまつながいえ(俊勝)は尾張(愛知県)の国人領主・斯波しばに仕えていた久松家に1526年に誕生した。長家が誕生した頃には、すでに斯波家は凋落していた。そのため、長家は新興勢力であった織田信秀に従属した。

徳川家康
徳川家康

初名は「長家」で

後に「俊勝」と名乗ったんじゃ

ひろ
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この頃、

家康の父・松平広忠今川義元に仕えていましたね

於大の方と再婚

久松長家は水野家の娘を娶っていましたが、後室として徳川家康の生母の於大の方と再婚した。於大の方は徳川家康の父・松平広忠と結婚していたが、家康が3歳のときに離縁させられて、生き別れて、再婚することになった。

その後、1560年に桶狭間の戦いが起こると、於大の方は徳川家康との再開を果たすことができた。

ひろ
ひろ

どうする家康でもこのシーンが描かれていましたね

於大の方(wikipedia)

出奔の理由

徳川家康が三河(愛知県)の領主となると、久松長家は息子たちとともに家臣となった。家康の領土拡大に従って、鵜殿長照うどのながてるの守る上ノ郷城の攻略に取り掛かった。これに成功し、長家は上ノ郷城の領主となる。

ひろ
ひろ

家康が関東移封となるまで

久松家が上ノ郷城の領主を担当したよ

徳川家康のもとで順調に出世していた長家であったが、事態は急変する。

1572年、於大の方の兄・水野信元が対立する武田勝頼に通じていたとして、織田信長から謀反の疑いをかけられた。水野信元は潔白を訴え、甥の徳川家康を頼ったが、家康は織田信長との関係を重視して、水野信元を斬るように家臣の平岩親吉に命じた

長家は慕っていた水野信元が誅殺されてしまったことに憤慨し、上ノ郷城に隠居してしまった。

徳川家康
徳川家康

この件は冤罪だったんじゃ、、、

まとめ

久松長家は徳川家康に従って順調に出世した武将でしたが、慕っていた水野信元の誅殺により、隠居してしまいました。

隠居した長家は三河一向一揆で荒れ果てた一向宗の寺院の再興に尽力したと言われています。また、長家の子供たちは家康から「松平姓」を与えられ、徳川家康の家臣として仕え続けました。

ひろ
ひろ

その後の久松家は「久松松平家」として

松平一門に准じた待遇を受けて幕末まで城主を務めました

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