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[大河ドラマ・どうする家康]真田信幸・信之(キャスト:吉村界人)は真田幸村と仲がよかったのか?何歳まで生きた? 年表 子孫 家系図 家紋 城

大河ドラマ
ひろ
ひろ

大河ドラマ・どうする家康」で登場する真田信幸・信之

吉村界人さんが演じている真田幸村(真田信繁)の兄ですね

徳川家康
徳川家康

父の真田昌幸と弟の真田幸村はわしを追い詰めた

手強い相手であったじゃった

ひろ
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真田信幸・信之は父と弟に挟まれて影が薄いですが

一体どのような生涯だったのでしょうか?

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真田信幸の年表

年表年齢出来事
15661真田昌幸の長男として誕生
157914武田信勝ともに元服
158217主君・武田家が滅亡する
158520上田城の戦い
158924本多忠勝の娘・小松姫と結婚
159025小田原城の戦い
160035関ヶ原の戦い、父と弟の助命の嘆願
161550大坂の陣。真田幸村の活躍により謀反を疑われる
162257松代藩に加増される
165691真田信政に家督を譲る
165893真田家中で争いが起こる。享年93

真田信幸の家系図

真田信幸・信之は真田昌幸の長男

真田信之さなだのぶゆき・真田信幸(演 : 吉村界人)は1566年、甲斐(山梨県)で真田昌幸(演 : 佐藤浩市)の長男として生まれました。父・真田昌幸は真田家の当主として武田信玄(演 : 阿部寛)、武田勝頼(演 : 眞栄田郷敦)に仕えていました。

相次ぐ兄弟の死により、三男でありながらも家督を継いだ真田昌幸は、その正当性を示すために真田信幸に従兄妹の清音院殿を正室に迎えさせました。さらに真田信幸は武田勝頼長男・武田信勝と一緒に元服しました。

ひろ
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信之の幼名は源三郎で、弟幸村の幼名は源二郎

兄弟の順が逆なのは長男が早死にしないようにとの願いが込められています

真田信幸・信之は本多忠勝の娘と結婚!?

長篠の戦い以降、武田家は衰退し、1582年に武田勝頼天目山の戦いで討ち死にしました。この頃、真田昌幸は武田の滅亡を見越して北条と和睦を結び、戦に備えるために兵を集めていました。しかし、織田信長(演 : 岡田准一)によって本拠地である上野(群馬県)の岩櫃城いわびつじょうを攻められた際、真田昌幸は織田家臣となりました。

徳川家康
徳川家康

真田が織田に仕えていたのはわずか数ヶ月程度じゃ

ところが、本能寺の変で織田信長が亡くなると、旧武田領で天正壬午の乱が勃発しました。父・真田昌幸はこの反乱に乗じ、空白となった旧武田領で勢力を拡大しようと試みました。その間に、父・真田昌幸は主君を上杉→北条→徳川と1年のうちに四度も変えました。その結果、岩櫃城を守り、沼田城を得ることができました。

ひろ
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このときの真田昌幸の立ち振る舞いこそが

まさに「表裏比興の者」ですね

その後、徳川と北条が和睦し、天正壬午の乱は終結。信濃(長野県)甲斐(山梨県)は徳川、上野(群馬県)は北条の領地となりましたが、上野の岩櫃城沼田城は真田昌幸のものでした。真田昌幸は徳川や北条の命令を無視し、城を守り続けました。これに怒った徳川家康(演 : 松本潤)は暗殺を試みましたが、逆に返り討ちにされました。

ひろ
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真田昌幸は暗殺しなければならないほどの腕があったということですよね

激怒した徳川家康は、上田城8千の兵で攻め込みました。通常なら、真田が地方の国衆に過ぎないため、五ヵ国の領主となった徳川にとって容易に攻略できるはずの城でしたが、真田昌幸の天才的な軍略により、徳川軍は返り討ちにされました

ひろ
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上田城は徳川が真田に命じて築いた城なのに真田は勝利するんですね

すごすぎる

徳川家康
徳川家康

豊臣秀吉が真田を援護していたことも原因じゃ

その後、徳川家康は再び真田を滅ぼそうと軍を整えましたが、真田昌幸が天下人の豊臣秀吉(演:ムロツヨシ)に臣従したため対立は終結。その時、真田昌幸は真田信幸徳川重臣・本多忠勝(演:山田裕貴)娘・小松姫(演:鳴海唯)を婚約させ、両家の結びつきを強めようとしました。

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真田信幸の正室・清音院殿小松姫との婚約を機に

側室となっています

徳川家康
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小松姫との仲は睦まじく

2男2女の子に恵まれたんじゃよ

真田信幸は真田昌幸、真田幸村との今生の別れ

豊臣政権下での真田昌幸は、豊臣秀吉の命令に従い、小田原征伐朝鮮出兵のために九州にまで兵を進めました。伏見城の普請を支援するなどして、豊臣秀吉からの信頼を勝ち取り、「羽柴」の名字を与えられました。

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豊臣政権下では徳川家康とうまくやっていたようです

豊臣秀吉の死後、天下が再び動き始め、五大老の筆頭であった徳川家康が台頭し、石田三成(演 : 中村七之助)と対立しました。これを見た真田昌幸は長男・真田信幸次男・真田信繁(演 : 日向亘)下野(栃木県)犬伏に呼び寄せ、今後の方針を決定しました。真田昌幸はあらゆる情報網を駆使して、徳川につくべきか、石田につくべきかを検討しましたが、最終的な答えを出せませんでした

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真田幸村石田三成と親交が深かった大谷吉継の娘を正室に迎えておったんじゃよ

そこで、真田昌幸は策略を用いて、徳川と結びつきの強い長男・真田信幸を東軍に送り、自身と次男・真田信繁を西軍につけることにしました。つまり、東軍と西軍のどちらが勝利しても真田家が存続できる道を選んだのです。

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真田幸村は石田三成の盟友・大谷吉継の娘と結婚しており

西軍勢との結びつきが強かったんですね

関ヶ原の戦いに呼応して各地で戦乱が勃発し、真田昌幸のいる上田城でも戦闘が起きました。徳川家康の三男・徳川秀忠(演:森崎ウィン)は、3万8千もの兵でわずか2千の兵を持つ上田城へ進軍しました。しかし、真田昌幸の天才的な軍略により、徳川軍は返り討ちにされました。

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真田昌幸は徳川家に帰順するふりをして

徳川軍に油断させたそうです

真田信幸は江戸幕府に監視され続けた生涯

関ヶ原の戦いが終結した後、西軍に味方していた真田昌幸真田幸村には処罰が下されました。しかし、真田信幸は舅である本多忠勝と共に、父と弟の助命を嘆願しました。その結果、二人は紀伊(現在の和歌山県)の九度山に配流されました。さらに、真田信幸は徳川家からの信頼を得るため、通称である「」から「」に改名しました。

ひろ
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真田昌幸に散々苦しめられてきたから

徳川としては2人を処刑したかったんだろうな

徳川家康
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それこそ真田昌幸本多忠勝の娘を真田家にもらった最大の目的じゃろうな

関ヶ原の戦い後、真田信之は領内・上田(長野県)の立て直しをはかり、インフラ整備減税などの政策を行いました。また、倹約を心がけて、父と弟のために生活費の仕送りをしています。

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真田信之は何度も何度も真田昌幸真田幸村

解放するように幕府に訴えかけていたようです

大坂の陣では、病気であったために出陣できず、長男・真田信吉次男・真田信政を出陣させました。しかし、弟の真田幸村が大活躍したため、真田信之は幕府から謀反の疑いを持たれてしまいました。この状況に対処するため、真田信之は上田城から脱出し、真田幸村を助けようとした者を処刑するなど、毅然とした態度で幕府に対抗しました

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大坂の陣後、真田信之は上田から信濃松代13万石に加増されています

その後、真田信之は隠居しようと考えましたが、幕府からの警戒と、長男・真田信吉嫡孫・真田熊之助が亡くなっていたために隠居は叶いませんでした。その結果、4代目・徳川綱吉の時代まで幕府に仕え続けました。そして、1658年に93歳で大往生を遂げました。

ひろ
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93歳まで生きて長寿ですが

30歳の頃から病気ががちで

50歳のときからマラリアに苦しめられていたようです

真田信幸・信之の家紋

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真田の家紋といえば「六文銭」が有名ですが

家紋はそれだけではなかったようです

六文銭:真田昌幸の父・真田幸隆が考案し、使用し始めた六文銭は、三途の川の渡し船の運賃に例えられており、戦場で死ぬ覚悟ができていることを表していると言われています。

結び雁金:結び雁金は、六文銭が使えない時期や戦のないときに代わりに使用されたとされています。

洲浜:洲浜は補助的に使用されていました。真田家が信仰していた神社の紋が洲浜であったため、これを使用していたと言われています。

真田昌幸の城

上田城

真田の城として最も有名な上田城は、1583年に信濃(長野県)に徳川家康の命により築城されました。真田昌幸はこの城で二度、徳川軍を撃退しました。関ヶ原の戦いの後、長男・真田信幸が城主となり、その後は仙石氏、松平氏が引き継ぎました。

岩櫃城

真田幸隆の代から真田の拠点として使用された岩櫃城は、堀を巡らせた山の頂上にある堅牢な要塞でした。真田昌幸は武田勝頼を救うため、この城に迎え入れようとしました

沼田城

真田昌幸が自力で切り取った城です。この城のせいで、真田と徳川との間で対立が起こりました。その後、沼田城は真田信幸が城主となり、妻・小松姫と暮らしました。

そして、関ヶ原の戦いの直前に犬伏の別れの後、真田昌幸は最後に孫の顔を見たいと、上田城に帰る前に沼田城に立ち寄ったと言います。しかし、小松姫は「義父とはいえど、敵には城門は開かない」と真田昌幸を城から追い返したと言われています。

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兵からばれない城の裏手門からなら入ることを許されて

真田昌幸は孫の顔を見ることができたようです

真田信幸・信之の子孫

真田信之には正室・小松姫との間に2男2女、側室との間に2女をもうけています。

長男・真田信吉

真田信之の長男であり、母は真田信之の最初の正室・清音院殿です。大坂の陣には父・真田信之に代わって出陣しました。残念ながら、真田信吉は父よりも先に逝去し、その長男・熊之助も早世しました

次男・真田信政

真田信之の次男。兄・真田信吉とともに大坂の陣に出陣しました。兄が亡くなったために、父・真田信之が91歳のときに家督を相続しました。しかし、家督相続から2年で亡くなってしまいました。

真田家の家督は真田信政の六男・真田幸道が継いで、信濃松代藩として幕末まで存続しています。

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真田信政はなかなか家督を譲ってくれない父に苛立っており

遺言書に父のことを書かなかったといいます

三男・真田信重

真田信之の三男。真田信之より信濃埴科はなしなを継ぎましたが、後継者がいなかったために廃藩となっています。

四男・道鏡慧端

真田信之の四男。真田信之が76歳ときに側室との間にできた子でした。参勤交代のときに江戸に赴いた際に、19歳で出家しました。

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道鏡慧端どうきょうえたんも長生きで80歳で大往生を遂げています

まとめ

真田信之は父や弟に挟まれて陰こそ薄いですが、真田家を守り抜いた優秀な武将でした。晩年は、徳川家を何度も苦しめた真田親子の影響で、真田信之も徳川幕府に見張られることになってしまいます。

ひろ
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真田信之前田慶次と懇意な仲で

本能寺の変の知らせも前田慶次から聞いたといいます

ひろ
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