太田道灌は戦国時代の初期に活躍した武将だな
道灌殿はかなり優秀な武将で
主君の扇谷上杉氏を立て直したんじゃよ
それなのに、主君から暗殺されるなんて
一体何があったんだろう?
太田道灌の年表
道灌は築城や兵法などを身につけた戦国武将だけど
和歌にも精通していたよ
道灌殿が和歌を始めたのは
山吹伝説という逸話がきっかけじゃ
太田道灌の相関図
道灌があまりに聡明すぎて
父の資清は心配していたみたい
道灌殿の父が
「知恵が働きすぎる者は良からぬことを考える、曲がっていては使い物にならぬ。障子を見よ、真っ直ぐだからこそ役に立つ」
というと
道灌殿は「屏風は真っ直ぐでは役に立たず、曲がっていてこそ仕えますよ」と反論したそうじゃ
太田道灌の誕生
太田道灌は1432年、太田資清の子として生まれました。太田家は鎌倉公方を補佐する関東管領・山内上杉氏を補佐する扇谷上杉氏の家宰でした。
家宰は主君に代わって政務を取り仕切る役職だな
鎌倉公方は関東の将軍といったとこじゃな
鎌倉公方は足利一門が務め、その補佐役である関東管領は山内上杉氏が代々務めていました。太田氏の主君である扇谷上杉氏は山内上杉氏を補佐する役割を担っていました。
父・太田資清は知識人として知られ、山内上杉氏の家宰を務めていた長尾景仲とともに、関東管領となった上杉憲忠を補佐。また、この2人は「関東不双の案者(関東で極めて優れた知識人)」と呼ばれており、道灌はそんな父のもとで学問に励み、足利学校で学んだといわれています。
実はこの頃
鎌倉公方と関東管領は仲が悪く対立しておったんじゃよ
扇谷上杉氏の復興
道灌が18歳の頃、足利成氏が12歳にして鎌倉公方に就任。翌年、祖父・長尾景仲が成氏の御所を襲撃するも、かろうじて成氏は生き延びます。
そしてその4年後、父の代からの恨みを募らせていた足利成氏は関東管領の上杉憲忠を暗殺してしまいました。上杉氏は足利成氏と合戦をするも大敗してしまい、その後享徳の乱が始まります。
また、足利成氏は室町幕府から見放されて朝敵となってしまったため、足利成氏は下総(茨城県)に逃れて古河公方となりました。
将軍家と鎌倉公方も仲が良くなかったんじゃ
道灌はこの享徳の乱の真っ最中に家督を継承。古河公方に対抗するため、防衛拠点が必要でした。そこで、道灌は利根川に沿って河越城を築城。さらに、国衆・千葉氏への備えとして江戸城を築城しています。
この頃の江戸は山と荒れ野に囲まれて
要害としてはもってこいの場所だったんじゃよ
古河公方・足利成氏は幕府とも対立していました。そこで、足利義政は兄・政知を新しい鎌倉公方として送り込みます。ところが、関東の情勢があまりに不安定であったため、政知は堀越に留まって、堀越公方と名乗りました。
また、上杉氏は堀越公方に従いましたが、政知は疑心暗鬼なって道灌の主君・上杉持朝に謀反の疑いをかけていました。
この頃の関東情勢は複雑化しすぎて、大名たちも混乱しておる
成氏の父・持氏の頃から将軍と鎌倉公方は仲が悪いよ
またこの頃、京都で応仁の乱が勃発。戦国時代の幕開けでした。そんな時に、山内上杉氏の家宰である長尾氏で家督争いが発生します。これにより、長尾景春は謀反を起こして、古河公方に寝返ってしまいます。
さらに駿河で起きていた今川家の家督争いの仲裁に
太田道灌は出陣していたんだ
道灌が駿河(静岡県)から戻ると、石神井城、忍城、臼井城を侵攻。さらに長尾景春の拠点である鉢形城を包囲しつつ、古河公方との和睦を模索しました。道灌は次々と景春の拠点を落として、景春は古河公方の元へ逃げ込み、乱は終結。道灌は見事に上杉氏の危機を救いました。
複雑すぎるけど
とにかく太田道灌は長尾景春の乱を鎮めて、享徳の乱を終わらせる大活躍をしたぞ
当方滅亡!!
長尾景春の乱後、太田道灌は上杉氏と古河公方との間で都鄙合体といわれる和議を成立させ、享徳の乱を終結させました。
30年もかかって享徳の乱が終わったぞ
乱後、道灌は「今の上杉があるのはワシのお陰だ」と豪語しており、傲慢さが目立ちました。そして自他ともに認める道灌の活躍により、主家・扇谷上杉氏が関東管領・山内上杉氏に劣らないほどの勢力となり、家中での道灌の発言力は絶大なものとなっていました。
たしかに道灌のおかげなんだけど、、、
「このまま太田道灌を放置しておけば謀反を起こすのではないか」と考えた、主君・上杉定正は暗殺を計画。道灌が風呂に入ったところを暗殺してしまいました。この時、道灌は「当方滅亡」と叫んだといいます。
当方滅亡とは
「私が亡くなると扇谷上杉氏も滅びるだろう」
という意味じゃ
道灌の予言通り上杉家内で争いが起こり、北条早雲の付け入る隙を与えて、上杉家は滅亡してしまいました。
まとめ
太田道灌は並々ならぬ天才ぶりを発揮し、主君・扇谷上杉氏をもり立てることに成功しました。しかし、出る杭は打たれるは世の常。道灌の実力を恐れた主君・上杉定正は彼を暗殺してしまいました。
道灌が子どもの頃、父とこんな会話をしていたよ
父が道灌の才能を心配して「驕れる者は久しからず」というと
道灌は「驕らざるものもまた久しからず」と答えました
道灌殿がもっと謙虚であれば
暗殺されずにすんだだろうな