桶狭間の戦いといえば
「尾張の大うつけ」といわれた織田信長と
「東海道一の弓取り」といわれた今川義元が争ったんよな
まだ弱小大名だったころの信長公にとって
義元殿は強敵じゃったのに信長公は奇襲によって討ち破ったんじゃ
本当にすごい戦いじゃった!!
ここから信長の快進撃がはじまるぞ!!
どうやって信長は義元を討ちやぶったのかみていこう!!
今川義元の尾張侵攻!!
桶狭間の戦いが起こったのは1560年で、尾張(愛知県)の大名織田信長と駿河(静岡県)の大名今川義元の間で起こりました。
当時、信長は織田家内での家督争いに勝利し、尾張の武将を破ってようやく尾張一国の大名になったばかりの弱小大名でした。
それに対して義元は足利将軍家と血のつながりがある名門家の生まれで、東海道三ヶ国統治する大大名でした。
信長と義元の間には圧倒的な差があって、誰もが義元は勝つもんやとおもってたんや
だから義元は油断して尾張に侵攻してたんやな
信長の奇襲!!
この頃、義元は武田信玄や北条氏康と同盟を結んで、東からの攻撃を受けないようにしてから上洛を目指していました。
義元は4万もの大軍を擁して尾張に侵攻します。手勢がわずかな織田軍の砦は次々と陥落して、義元は織田家の砦がどんどん落ちていっていることに気が緩んでいました。
そして砦の陥落情報が信長へもたらされます。織田家家臣は清洲城に籠城を主張しますが、信長はお気に入りの「敦盛」を舞うと湯漬けをかきこまみ、わずか2000の兵をつれて出陣しました。熱田神宮で勝利祈願をして、義元の本陣の場所を探させました。
敦盛という舞は「人間50年」で始まる舞じゃ
信長公お気に入りの舞じゃ
後の本能寺の変で討たれる前にもこの舞をまったとされているぞ
すると、家臣の梁田広正から義元が田楽狭間で休憩中という情報を手にいれます。そして信長は義元の本陣へ一気に奇襲攻撃。このとき大雨と雷鳴のおかげで織田軍の動きの音を消していたといいます。
奇襲攻撃をうけた義元はなすすべなく討ち取られてしまいました。合戦後信長がもっとも多く恩賞を与えたのは、義元の首をとった毛利新介ではなく、正確な情報をつたえた梁田広正でありました。
信長の功績の配分から
弱小武将にとっては、情報こそが合戦を制する一番の要因とわかるな
桶狭間の戦いから始まる信長の快進撃
桶狭間の戦い後、今川家は急速に衰退します。また信長は勢いにのって勢力を拡大していき、美濃の攻めに取り組むのでした。
今川家の支配下にあった三河(愛知県)の松平元康は信長と手を組んで関東からの攻めこみを防ぎました。この松平元康こそのちの徳川家康でした。桶狭間依頼、家康と信長は20年以上の盟友となります。
家康は義元のもとでの人質生活をしていたとき依頼信長と仲がよいな
まとめ
桶狭間の戦いは織田信長の名を一気に知らしめた壮絶な戦いでした。今川義元は大軍を擁しておきながら討ち取られてしまいましたが、義元の実力不足ではなく信長が強すぎた結果であると思います。
義元は最期まで抵抗して、義元の首をとった毛利新介の指を食いちぎっています。公家よりの大名といわれる義元もしっかりとした武将魂をもっていました。
戦国時代では弱小勢力でも大大名を撃つチャンスがある時代だね!!
信長公の桶狭間の戦いをみて
わしは「信長公なら天下をとれる」とおもったんじゃ