蒲生氏郷といえばキリシタン大名で会津若松城を築いた武将だよなー
それに信長公やわしが一目おいていた武将でもあるんじゃ
しかし早死にしてしまってもったいないわい
早死にしてしまったから有名じゃないのかなー
それでは蒲生氏郷の生涯をみていこう!
蒲生氏郷の年表
90万石の大名にまでのぼりつめるなんてすごいなー
宣教師オルガンティノは
「傑出した武将」と氏郷を褒め称えておる
蒲生氏郷の相関図
氏郷は利休の弟子の1人じゃ
それに高山右近にすすめられてキリシタンにもなっておる
氏郷は武将としても、文化人としても名高いなー
蒲生氏郷の誕生
蒲生氏郷は1556年、近江(滋賀県)に蒲生賢秀の三男として生まれました。蒲生家は近江の大名六角家に仕えいた一族で、元来は将軍家にも仕えたことのある名門家。
ところが、織田信長が六角家を攻め込んだ観音寺城の戦いで、六角家が敗れると父賢秀は氏郷を信長に人質として差し出し従いました。
氏郷も時代の風雲児信長の影響を受けたんだね
信長の人質から出世する
わずか13歳で信長の人質となった氏郷でしたが、信長との初対面のとき
「目つきがただものではない」
といわれ
信長に一目おかれます。
さらに信長の氏郷への寵愛はものすごく、娘を氏郷に娶られせ、元服のときには信長が親代わりをするほどでした。
氏郷は信長公にひどく好かれていたんじゃなー
氏郷は父とともに柴田勝家の与力になると浅井朝倉と対峙した姉川の戦い、足利将軍を京都から追い出した槙島城の戦いで武功をあげました。
そして本能寺の変がおこるとすぐに信長の妻子を守り、自身の居城にかくまいます。氏郷は明智光秀と同じ近江の武将であり、近江の国で唯一光秀に反抗した勢力でありました。
その後氏郷は豊臣秀吉とともに光秀を討つと、秀吉に従い賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いに参加したために秀吉から伊勢国(三重県)12万石を与えられました。
氏郷は時代を読む能力に長けており、本能寺の変でも迅速に動けたんじゃなー
キリシタン大名と茶の湯
やはり蒲生氏郷といえばキリシタン大名です。氏郷はもともとキリスト教に興味がありませんでしたが、友人の高山右近からすすめられてキリスト教に入信。洗礼名を「レオン」とします。
さらに氏郷は茶の湯を嗜み、千利休の7人弟子に氏郷の名前が上がるほどでした。
氏郷はローマまで使節団を出そうとするほどの信仰心をもっていたといわれているよ
また氏郷は会津若松城を築き
城下町に楽市楽座を導入して文化や商業の面で会津を発展させたんじゃ
また豊臣秀吉が北条家を滅ぼしたことで、関東地方と東北地方の領土再分配を行いました。このとき氏郷は秀吉から会津(福島県)90万石を賜っています。
これは豊臣政権家で徳川家康、毛利輝元、前田利家につぐ4番目の石高であり、また会津は不穏な動きを見せる伊達政宗や徳川家康の監視場所として重要な領土であり、秀吉が氏郷のことをそれほどまでに信頼していたことがわかります。
しかし氏郷はたった40歳の若さで亡くなってしまいました。
氏郷の死には暗殺説があるけれど病死が1番有力らしいよ
まとめ
蒲生氏郷は天下人織田信長、豊臣秀吉に一目を置かれた武将であり、長生きをしていればもっと有名になった武将であると思います。
また氏郷は家臣に優しく慕われていたといいます。
氏郷は家臣のために風呂を焚き火で沸かしたというぞ
ちなみに大阪にある「蒲生4丁目」などの「蒲生」は氏郷とは関係ないよ