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[5分でわかる!]悲運の結末を迎えた佐々成政とは?

戦国武将
ひろ
ひろ

佐々成政は名前は知っているけど

なにをしたかはあまり知らないなー

徳川家康
徳川家康

成政殿信長殿のもとに仕えて出世していったんじゃが

本能寺の変以降はうまくたちまわれずに墜落してもうたんじゃ

ひろ
ひろ

成政も他の織田家の武将と同じで本能寺の変を境に人生が狂ったんやな

それでは佐々成政の生涯をみていこう!!

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佐々成政の年表

ひろ
ひろ

信長に仕えてエリート街道まっしぐらやなー

徳川家康
徳川家康

浜松のわしのもとまで、

わざわざ富山から山を越えてやってきたのを知ったときはびっくりしたわい

佐々成政。水害の多い富山に堤防を築いた。
(富山市郷土博物館蔵)

佐々成政の相関図

ひろ
ひろ

成政は晩年肥後の統治を任せられたけど、

一揆の起きやすくて統治の難しい土地だったんだよな

徳川家康
徳川家康

そうじゃ

秀吉殿は成政殿を失脚させるためにわざと肥後に送ったのかもしれんな

豊臣秀吉。晩年は無理な政治を行って民衆からの人気が落ちた。
(高台寺蔵)

佐々成政の誕生

佐々成政ささなりまさは1536年、尾張(愛知県)に佐々成宗の三男に生まれました。もともと、佐々家は近江(滋賀県)守護である佐々木家が先祖とされ、父成宗のときに尾張に移住し、尾張の守護斯波家に仕えていました。その後織田信長が台頭してくると、佐々家は織田家に仕えます。

ひろ
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成政は三男とも五男ともいわれていて生年もはっきりしていないよ

織田信長。この肖像画は宣教師が描いたもの。
(三宝寺所蔵)

信長のもとで出世!!

成政は佐々家の家督を継ぐと、騎馬の護衛兵から仕事をはじめます。

今川義元との桶狭間の戦いでこそ目立った活躍はできませんでしたが、その翌年、信長の美濃(岐阜県)侵攻である森部の戦いで武功をあげ、織田家にその名を轟かせます。その後も信長のもとで武功を上げることで黒母衣衆くろほろしゅうの1人に抜擢されます。

ひろ
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黒母衣衆馬廻衆から選抜された織田家のエリート集団

黒い母衣をシンボルとしたんだ

黒母衣衆。黒いマントが目印。

また信長が目をつけた火縄銃を成政が調達し、鉄砲隊を組織しました。成政の鉄砲隊は強力で、信長が武田をうちやぶった長篠の戦いでも活躍しました。

さらに信長が越前(福井県)の朝倉義景を滅ぼすと、織田家重臣柴田勝家を北陸地方の総司令官に任命。成政は勝家の寄騎となり、越前に小丸城を築いて3万石の城主となります。

ひろ
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成政は前田利家、不和光治とともに勝家を支えたぞ

勝家のもとで越後(新潟県)の上杉謙信と合戦をしますが、軍神謙信には歯が立たず敗れてしまいます。

しかし、謙信がなくなると再び攻め込んで、勢力を拡大。これにより成政は越中(富山県)を平定し、富山城を居城とします。

徳川家康
徳川家康

成政殿は信長殿のもとでトントン拍子の出世を果たしたんじゃ

火縄銃を安価で生産できるように調達したのが成政殿の1番の功績じゃなー

成政の馬印。傘を立て三重に重ねた。

本能寺の変で狂う人生

信長のもとで出世を果たし順風満帆な成政でしたが、本能寺の変により、人生が狂ってしまいます。

豊臣秀吉明智光秀を破って織田家の実権を握ろうとしたため、秀吉は勝家と対立。成政は勝家に味方し、秀吉との賤ヶ岳の戦いに参加します。

ところが合戦に敗れてしまい、成政は人質として娘を秀吉に差し出し降伏

信長の次男織田信雄が秀吉から織田政権を取り戻そうとして徳川家康ともに、小牧長久手の戦いを起こします。成政は織田家に忠誠をつくして、家康側について前田利家隊と合戦を繰り広げるも、信雄秀吉が和解したために合戦が終了。

成政は家康に再挙兵の意を促しますが応じられず、秀吉の10万の大軍に居城の富山城を攻められて降伏しました。

ひろ
ひろ

成政は家康にもう一度挙兵してもらうために越中から浜松まで雪の中日本アルプスを越えていったんだよ

これは現代の装備をもってしても危険な行為で、60人で出発したのに7人しか生き残らなかったというよ

再び秀吉に降伏した成政は御伽衆にまで成り下ります。しかし、九州征伐で武功を挙げたため肥後(熊本県)を与えられました。

新しい土地での内政がうまくいかなかったのか、一揆をまねいてしまい失脚。結局、秀吉から自害を申しつけられて亡くなりました。

ひろ
ひろ

晩年はなにもかもがうまくいかなかったんだな

さらさら越えの様子。(歌川芳形画)

まとめ

佐々成政は信長のもとで出世をしたエリート武将でしたが、本能寺の変がそれまで積み上げてきたものをすべて崩すように転落する人生でした。

ひろ
ひろ

成政には早百合さゆりという側室がいたけど、不義の子を身ごもったという理由から彼女を処分したみたい

その早百合が亡くなる直前、「立山に黒百合くろゆりが咲いとき、佐々家はほろびる」という呪いの言葉を吐いたらしい

徳川家康
徳川家康

それ以来、佐々家では百合の花を活けなくなったみたいじゃな

加藤清正。佐々成政に変わって肥後を
治めた。(京都府勧持院所蔵)

コメント

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