雑賀衆は和歌山県に本拠地をおいていた鉄砲集団のことやな
信長公と対立していた石山本願寺と手を組んで
信長公を苦しめた傭兵集団でもあるのー
傭兵だから謎に包まれていることが多いんかー
今回は和歌山に現れた鉄砲集団・雑賀衆についてみていこう!
雑賀衆とは?
雑賀衆とは紀伊(和歌山県)に拠点をおいた傭兵集団です。雑賀衆のリーダーとしては有名なのが、土橋家と鈴木家。土橋家は村上源氏の流れをくみ、鈴木家は熊野本宮大社の神職を務めるほどの家柄であったといわれています。
紀伊国はとても肥沃だから雑賀野といわれていたみたい
「雑」は多くの恩恵を与えてくれる海や川を表して、
「賀」は繁栄や発展を表す言葉だよ
紀伊には目立った戦国大名が存在せず
雑賀衆や根来寺が覇権を握っていたんじゃ
雑賀衆は紀ノ川河口周辺を領土とし、水軍を形成して海運業に専念していました。そのため、全国各地と商売をすることで莫大な富を得て、軍備強化にあてていました。こうして雑賀衆は戦国時代、最強の鉄砲集団に成長したのです。
信長は長篠の戦いで1000挺鉄砲を使ったというけど
雑賀衆には8000挺もの鉄砲があったみたい
経済の中心地・堺が近かったことも富を得る一因となったじゃろなー
雑賀衆の棟梁・鈴木孫市とは?
雑賀衆のリーダー鈴木孫一についてみていこう!
鉄砲の名手!!
雑賀衆をまとめていたのが鈴木孫一。孫一の生まれた鈴木家は紀伊の土豪であり、熊野大社とも関係があったといわれています。
鈴木孫一についてはわからないことだらけで、
「鈴木重秀」、「鈴木重朝」、「平井孫一郎」という名前だったともいわれているよ
孫一が生まれたころから、雑賀衆は多くの鉄砲を保有しており、孫一も幼い頃から鉄砲の修練を行なっていました。雑賀衆の一員として孫一も各地の合戦に出陣。戦歴を重ねるにつれ、雑賀衆一と称されるほどの鉄砲の腕前となりました。
有名な三段撃ちを考案したそうじゃ
魔王織田信長の脅威!!
天下布武により尾張(愛知県)から台頭してきた織田信長は、将軍・足利義昭を京都から追放し、石山本願寺との合戦を開始。雑賀衆の多くは一向宗を信仰していたため、石山本願寺に味方して織田信長と激突します。
これまで雑賀衆は傭兵として戦っていたけど
今回は本願寺のために報酬を度外視して戦ったんやな
雑賀衆の活躍により、織田軍は天王寺の戦い、木津川口の戦いなどで大敗を喫します。そこで、信長は大軍を率いて雑賀衆の本拠地に侵攻。ところが、孫一の巧みな戦術に引っかかってしまい敗北してしまいます。
信長も結構合戦で負けているんやなー
秀吉の台頭!!
信長の侵攻を何度も弾き返していた雑賀衆でしたが、石山本願寺が信長と和睦したため、雑賀衆も信長と和睦。
ところが、度重なる信長の侵攻により中には、雑賀衆の実力者・土橋守重を中心に信長を嫌う者も多くいました。そのため、雑賀衆が内部分裂。孫一は内紛をおさめるため、土橋守重を暗殺。
雑賀衆には2つの派閥があって、
鈴木家と土橋家があったもんなー
しかし、本能寺の変により信長を失った孫一は、土橋派に討伐されるのを恐れて豊臣秀吉に接近。そして、秀吉に従って紀州征伐に出陣し、次々と秀吉に敵対する雑賀衆を撃破していきます。秀吉の紀州征伐により、雑賀衆は解体され、孫一は大坂に移り住むことになりました。
関ヶ原の戦いでは西軍に味方して、伏見城の戦いで鳥居元忠を討ち取っています。その後は、紀州徳川に仕えて生涯を終えたといわれています。
鈴木孫一についてはわからないことだらけで、
この話には逸話も含まれているよ
まとめ
雑賀衆は戦国最強の鉄砲集団として活躍。鈴木孫一という棟梁があらわれて組織を指揮するも、天下人・織田信長や豊臣秀吉に攻め込められて解体されてしまいました。
日本に「鈴木」の苗字が多いのは、
熊野信仰がブームになったときに、
紀伊に住んでいた鈴木氏が全国に散らばったからともいわれているよ