前田慶次は小説やゲームなどにたくさん登場するけど
一体なにものなんだ?
慶次は前田利家の甥なんじゃが
その詳しい正体は不明じゃ
慶次には謎が多いなー
それでは前田慶次の生涯を見ていこう!!
前田慶次の年表
前田慶次は有名なのにはっきりとしないことが多いなー
慶次が有名なのは、
伝説的な話が多いからじゃろなー
前田慶次の相関図
慶次にとって前田利家は義理の叔父なのかー
慶次と利家の仲の良さは不明じゃが
慶次の暴れん坊ぶりには、利家殿も手をやいたじゃろなー
前田慶次の誕生
前田慶次は1533年、越後(新潟県)に生まれたといわれていますが、出生年や誰の子かさえわかっていません。本名は前田利益といいます。
慶次の父は滝川一族ではないかといわれているよ
滝川家といえば織田信長に仕えた滝川一益が有名やな
養父前田利久が病弱であったため、主君織田信長の命令をうけて、前田家の家督を前田利家に譲ることになりました。これにより、利久と慶次は居城から退城して流浪の身となります。
なぜ信長殿が前田家の家督を四男である利家殿に譲ったのかは謎じゃ
前田家を出奔!?
流浪していた慶次は1581年、前田利家に仕えることになります。慶次は利家のもとで、小牧長久手の戦いや、小田原征伐に参戦しています。
ところが慶次は前田家を突如、出奔してしまいます。この時のエピソードは有名で、「慶次は利家を騙して真冬に水風呂に入れて、その隙をついて京都へ向かった」といいます。
慶次と利家は不仲ではなかったから
なんで慶次が出奔したのかは謎だよ
傾奇者前田慶次!!
出奔して京都に来た慶次は、愛馬である松風を贅沢に装飾して市中を練り歩きました。これにより、「前田慶次」の名を都の人に広めようとしました。
慶次は京都で出家して、
「穀蔵院飄戸斎」と名乗ったというぞ
また、天下人豊臣秀吉が開催した宴に紛れ込むと、猿のお面をつけて大名たちの前で踊ったといいます。猿といえば、豊臣秀吉のニックネームであり、天下人秀吉をからかったのでしょう。秀吉は慶次と面会した際に傾奇者御免状を与え、傾奇者として生きることを許可しています。
この宴の時、諸大名のなかで一際威厳を放つ人物がいたみたい
その武将こそ慶次がのちに仕える「上杉景勝」
上杉景勝に仕官!!
京都で自由奔放な生活を送った慶次は1598年、上杉景勝に仕官。
慶次が上杉家に仕官した理由ははっきりしないけど
景勝の「義」の心に惹かれたんやろなー
慶次は直江兼続とも親交があったというぞ
景勝に仕えて、関ヶ原の戦いに連動して起こった長谷堂城の戦いに出陣しています。上杉家が属する西軍が敗れてしまったため、景勝は撤退することなります。その時、慶次は上杉軍の殿(最後尾)を務め、大活躍しています。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北し、主君上杉景勝の石高が120万石から30万石に減封され、上杉家の家臣が次々と離れていきました。ところが慶次は「私の主は上杉景勝ただひとりだ」と言い放ち、他藩からの申し出を断っています。
晩年、慶次は米沢で余生を過ごしながら若者に「源氏物語」や「伊勢物語」を語ったというよ
まとめ
前田慶次は戦国の世をひっかきまわした破天荒な武将でした。ところが、上杉景勝の人柄に惚れると合戦に参加して武功をあげるなど活躍しています。
慶次は「連歌」や「茶の湯」にも精通していたというよ