織田四天王の一人丹羽長秀!!
織田家では内政面を充実させて活躍した武将やなー
長秀殿は「知性、武勇、人間性」のどれもがバランスよく備わった武将じゃよ
それでは、織田家二番手家老の丹羽長秀の生涯をみていこう!!
丹羽長秀の年表
15歳のときから信長に仕えていたんやなー
それに織田家の家督争いでは柴田勝家さえも弟信行に従う中、
長秀殿は信長殿についたんじゃよ
丹羽長秀の相関図
信長の養女を妻として迎えていて、
長男も信長の5女を正室に迎えているんやなー
それほど信長殿が長秀殿のことを信頼しておったんじゃろな
丹羽長秀の誕生
丹羽長秀は1533年、尾張(愛知県)に丹羽長政の長男として生まれました。丹羽家は代々名門斯波家に仕えていましたが、長秀の父長政のときから織田家に従うようになりました。長秀は15歳のときから織田信長に仕えており、「長秀」の「長」は信長から賜ったと言われています。
長秀は信長からとても可愛がられていたみたいで、
「長秀は友であり兄弟だ」と言われるほどの関係性だったみたい
天下の織田軍!!
長秀が信長に仕え始めた頃の織田家ではお家騒動が勃発。多くの家臣が信長の弟信行に従う中、長秀は信長について家督争いを鎮めています。
その後、信長に従って桶狭間の戦い、美濃攻め、観音寺城の戦いで武功をあげました。これらの功績から織田家の重臣としての地位を確立し、柴田勝家に次ぐ織田家家臣の二番手となります。
長秀は合戦で活躍し、
「鬼五郎左」として恐れられたというよ
また長秀は内政面で特に活躍しました。信長の命令により、琵琶湖に大型船を造船したり、安土城の普請を指揮したり、信長が好きな茶釜の買い付けを行ったりと内政面の活躍が目立ちました。
そのため、長秀は「米五郎左」という愛称で親しまれるようになります。
「米五郎左」は、米のように毎日の生活に欠かせない家臣という意味じゃな
本能寺の変で狂う人生!!
信長のもとで順調に出世していた長秀でしたが、人生を一変させる本能寺の変が起きてしまいます。
この日、長秀は信長の三男織田信孝とともに四国征伐に出陣していました。長秀は逆臣明智光秀を討つのに距離的に一番近い人物でした。しかし、長秀は毛利家との戦いを引き上げて、大急ぎで京都に向かってくる豊臣秀吉と合流してから山崎の戦いで明智光秀を討っています。
信孝と長秀が秀吉より早く光秀を討つことができたら歴史は大きく変わっていただろうなー
情報が錯綜しておったから、
すぐには動けんかったんじゃろな
その後、織田家の次期当主を決める清州会議では、豊臣秀吉に引き込まれて秀吉に仕えることになります。賤ヶ岳の戦いではかつての友柴田勝家に勝利し、越前(福井県)123万石の大名となりました。
長秀は賤ヶ岳の戦いで秀吉側についたけど、
勝家に味方した織田信孝を秀吉が自害に追い込んだことを
長秀はよく思っていなかったみたい
まとめ
丹羽長秀は信長政権を内政面から支えた武将でした。また合戦でも活躍し、織田家では柴田勝家に続く二番家老まで上り詰めています。
ところが、本能寺の変が起きると人生は一変し、位の下であった豊臣秀吉に仕えることになりました。
丹羽長秀にはこんな逸話が残っています。
長秀は胃がんにおかされた自身の内蔵を、割腹して自分の手でかきだして秀吉に送りつけたといいます。素直に秀吉に従っているようにみせて、実際には、腸は煮えくりかえっていたのかもしれません。
秀吉の「羽柴」は
「丹羽」と「柴田」から一字ずつとってつけたものやしなー
織田家のほとんどの武将が、
秀吉殿に従うのが嫌じゃっただろうなー