六角義賢の生まれた六角家は名門家で畿内を中心に活躍した戦国武将だね
義賢は将軍に協力して信長包囲網の一角となった武将でもあるんじゃ
名門だからこそ将軍家に頼られたんだね
それでは六角義賢の生涯をみていこう!!
六角義賢の年表
78歳まで生きたのかー
かなり長生きだなー
信長公によって滅ぼされた武将の多くは、
義賢のようにわしの御伽衆となって延命しておる
六角義賢の相関図
京都の近くに本拠地があったから、
有力武将との争いが耐えないなー
なかでも畿内を制圧した三好長慶は
将軍を京都から追放するほどの腕の持ち主じゃ
六角義賢の誕生
六角義賢は1521年、近江(滋賀県)に六角定頼の長男として生まれました。義賢は将軍足利義晴から「義賢」を賜るほどの名家で育ちました。
父定頼は将軍足利義輝の後ろ盾をもって京都に度々兵をだして、管領代にも任命されています。また定頼は織田信長よりも先に楽市楽座を行った革新的な戦国武将でもありました。
義賢の父定頼の時代が六角家の全盛期じゃな
管領代とは管領を補佐する役職で
管領は将軍に仕える重要な役職だよ
名門六角家にはじない働き!!
義賢は父とともに細川晴元を援助して畿内を制圧していた三好長慶と江口の戦いで争いました。この戦いにより長慶は将軍を京都から追い出し、摂津(大阪府)を平定しています。
このころは三好長慶が畿内で大暴れしていたんやなー
父定頼が亡くなり義賢は六角家の家督を継ぐと、南近江を中心に領土拡大を積極的に行いました。さらに、北近江の浅井家を攻め込んで勝利しています。ところが、長慶に追われて敗戦を喫したため、嫡男義治に家督を譲り、剃髪して隠居しました。
義賢は隠居すると「承禎」と名乗ったよ
義賢は隠居はしたものの、
実権は握り続けていたんじゃなー
最後は秀吉の御伽衆!!
北近江の大名浅井家の当主が浅井長政になると、野良田の戦いで長政に大敗を喫してしまいます。 そこで義賢は、美濃(岐阜県)の斎藤義龍と同盟をむすび、義賢の姉妹を美濃の土岐氏に嫁がせ、外交を充実させました。
家臣たちは父斎藤道三を討ち取った、父親殺しの義龍とのことをよく思っていなかったようじゃ
長慶が細川晴元を幽閉したため、河内(大阪府)の畠山高政と協力して長慶へ攻め込み京都から長慶を追い出しました。ところが、息子義治が何を思ったのか、六角家の重臣後藤賢豊を暗殺したために、家臣たちの忠誠心がうすれていきます。さらに、織田信長の近江侵攻によって大敗を喫してしまいました。
義賢は後藤賢豊が家臣から信頼を集めていて力をもっていたから暗殺したというよ
信長に敗れた後は伊賀(三重県)の地に逃げ込みますが、ここにも信長の手がまわっており、義賢は流浪の身となります。その後豊臣秀吉の御伽衆となり生涯を終えました。
信長包囲網の一角となったけど、
敗戦の連続で六角家を持ちこたえることができなかったんだね
御伽衆というのは大名の参謀で相談役のような身分のことじゃ
まとめ
六角義賢は名門家に生まれましたが、名門家のメリットを活かせず戦は連戦連敗で晩年は秀吉の御伽衆になりさがってしまいました。とはいえ弓馬の術に長けており、長男の義治は豊臣秀頼の弓術師範を務めたそうです。
室町幕府に仕えた名門家が次々に戦国の波にのまれてつぶれていったんだね