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[大河ドラマ・どうする家康]織田信雄(キャスト:浜野謙太)の読み方は?伊賀攻めはなぜ失敗したの?年表 子孫 家紋 城 家系図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する織田信雄

浜野謙太さんが演じている織田信長次男ですね

徳川家康
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織田信雄は本当になにがしたいのかわからんわ

小牧長久手の戦いでは痛い目にあったわい

ひろ
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織田信雄は2度も改易されたためよく愚将と言われていますが

本当に愚将だったのでしょうか?

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織田信雄の年表

織田信雄の読み方

織田信雄の正式な読み方は確定していません。多くの資料では「のぶかつ」と記されていますが、「のぶお」とする説も存在します。しかし、一般的には「のぶかつ」と読まれることが多いです。

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戦国時代では人の名前を呼ぶことはほとんどなくて

官位や通称で呼ぶことが多かったようです

織田信雄の誕生

織田信雄(演 : 浜野謙太)は1558年、織田信長(演 : 岡田准一)側室・生駒吉乃との間に誕生しました。織田信孝がわずか数日早く生まれていたにも関わらず、織田信雄の母の身分が格上であったために、織田信雄は次男となり、織田信孝が三男となりました。また、織田信雄の幼名は「茶筅」で、この名前は顔を見た織田信長が茶道具から連想したと言われています。

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長男の織田信忠は「奇妙丸

三男の織田信孝は「三七」ですね

織田信長は伊勢(三重県)の北畠具教北畠具房親子と大河内城の戦いを行っていました。織田信長は和睦条件の一部として、織田信長は織田信雄を北畠家の養子とすることを決定しました。これにより、織田信雄は「北畠具豊」と名乗るようになりました。

徳川家康
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織田信長は内側から北畠家を攻めようとしたわけじゃな

織田信雄が伊賀攻めで大失敗!!

北畠家は北畠具房が当主でしたが、1575年に織田信長が圧力をかけた結果、北畠具房は追放され、織田信雄が北畠家の当主となりました。この時、織田信雄は「北畠具豊」から「北畠信意」に改名しました。

しかし、北畠家の家臣たちは織田信雄を認めなかったのです。これを知った織田信長は、北畠家を壊滅させることを命じました。その結果、織田信雄は家臣に指示して北畠具教やその家臣たちを三瀬御所で討つ一方、織田信雄自身も居城に北畠家の重臣たちを招き入れて誅殺しました。この行動により、織田信雄は北畠家を完全に支配下に置くことに成功しました。

ひろ
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最初から織田信長は北畠を乗っ取る気満々だったでしょうね

しかし、1579年、織田信雄は隣国・伊賀(三重県)に対して織田信長の許可を得ずに侵攻しました。結果として、重臣・柘植保重を失うという大失態を犯したため、織田信長は大怒りし、「親子の縁を切る」とまで言い放ちました。

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これが織田信雄が愚将と呼ばれる根拠の1つですね

その後、織田信長が重臣たちを率いて伊賀へ進攻し、国を平定することに成功しました。

織田信雄は何をしたかったのか小牧長久手の戦い

本能寺の変によって父・織田信長が不慮の死を遂げた後、織田信雄は近江甲賀(滋賀県)まで進軍しましたが、戦闘には至らず撤退しました。さらに、父の本拠地であった安土城を焼き討ちした理由は、現在でも明らかになっていません。

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安土城の放火については明智光秀や豊臣秀吉が放火したとも言われています

その後の清州会議では、明智光秀(演 : 酒向芳)を討った豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)が実権を握り、織田信雄は甥の三法師(後の織田秀信)の後見人として、尾張(愛知県)を中心とした領地100万石を相続しました。

賤ヶ岳の戦いでは、織田信雄は豊臣秀吉の下で戦い、勝利を収めました。しかし、翌年の小牧長久手の戦いでは、徳川家康(演 : 松本潤)の援助を得て、豊臣秀吉に対抗しました。この戦いは、当時の最大勢力であった豊臣家と徳川家の間で行われ、膠着状態に陥りました。その中で、織田信雄は何の事前相談もなく、豊臣秀吉と単独で和解を結びました。織田信雄を支持していたという名目で戦っていた徳川家康は驚き、このことが引き金となって小牧長久手の戦いは終結しました。

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織田信雄の愚将ポイント3つ目ですね

織田信雄に豊臣秀吉から改易の命が、、、

小牧長久手の戦い以降、織田信雄は豊臣秀吉の下で数々の戦に出陣しました。1590年の小田原征伐にも参加し、武功を上げています。

しかし、この戦後の再編で豊臣秀吉から駿河(静岡県)への移封を命じられた際、織田信雄は先祖伝来の尾張(愛知県)を離れたくなかったのか、その命令を拒否しました。これにより豊臣秀吉の怒りを買い、結果として改易されてしまいました。

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改易されたときには出家して「常真」と名乗ったそうです

織田信雄と徳川家康の関係

豊臣秀吉により改易された織田信雄は一度は出羽(秋田県)や伊予(愛媛県)に流されましたが、徳川家康の仲裁により大和1万8千石を領する大名として復帰しました。

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長男の織田秀雄には越前5万石を与えられたそうです

しかし、関ヶ原の戦いでは大坂城内から両軍の動向を見守る立場でいたため、再び徳川家康から改易命令を受けました。その後、いとこの淀殿(茶々)を頼り、大坂城で隠遁生活を送りました。

しかし、大坂の陣が迫ると、徳川家康に接近して豊臣方の機密情報を伝える動きを見せました。その功績が認められ、戦後江戸幕府は織田信雄に大和5万石を与え、彼は再び大名としての地位を得ました。

徳川家康
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織田信雄は豊臣の重臣であった片桐且元と大野治長の対立を密告したんじゃ

その後、織田信雄は大坂の陣後には自領で庭園の造成や養蚕業の育成など、内政面での功績を挙げました。1630年、京都で73歳で亡くなりました。

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織田信雄は愚将と言われていますが

なんだかんだうまく生涯を生きていますよね

織田信雄の子孫

織田信雄には8人の息子と5人の娘がいたとされ、織田秀雄、おかに、織田高雄、織田信良、織田高長、織田信為、織田良雄、織田長雄、小姫、娘(佐々一義室)、玉雄院、女(生駒政勝室)、女(生駒直勝室)です。

長男の織田秀雄をはじめ、次男および三男は織田信雄より先に亡くなりました。四男の織田信良の系譜は上野小幡藩(群馬県)、出羽高畠(秋田県)、出羽天童藩を経て、幕末まで続きました。また、織田信良の血筋は現在の天皇家にも繋がっています。

五男の織田高長の系譜は、大和宇陀藩(奈良県)から丹波柏原藩主(兵庫県)として幕末を迎えています。六男の織田信為の系譜は、宇陀藩や小幡藩の家臣となりました。

長女の小姫は豊臣秀吉の養女となり、後に徳川秀忠の正室となりました。しかし、二人の間に子どもは生まれなかったと言われています。

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フィギアスケートの織田信成さんは織田信長の七男・織田信高の系統と言われています

まとめ

織田信雄は愚将としられ、各大名からけむたがれていた武将でした。実力がないと思われていたことが功を奏したのか、余計な争いに巻き込まれずにすみ、子孫を現在にまで残しました。

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織田家家臣の中では、「三介殿(信雄)のなさる事よ」と評して無能とみなしていたようです

徳川家康
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織田信雄は能の名手でもあったんじゃよ

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