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[大河ドラマ・どうする家康]服部半蔵・正成(山田孝之)は徳川家康の忍者だったのか? 年表 子孫 相関図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する服部半蔵

山田孝之さんが演じる徳川家康の忍びですね

徳川家康
徳川家康

服部半蔵は徳川家の情報戦の手助けをしてくれたんじゃよ

ひろ
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大河ドラマでは度々、服部半蔵は忍び忍者ではないと言っていますが

実際はどうだったんでしょうか?

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服部半蔵の年表

服部半蔵の相関図

服部半蔵の誕生

服部半蔵はっとりばんぞう(山田孝之)は1542年、三河(愛知県)で服部保長はっとりやすなが五男(六男とも)として生まれました。「服部半蔵」という名前は服部家の当主が代々名乗る名前であり、服部正成はっとりまさなりが本名です。

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服部家は飛鳥時代に始まったそうです

朝廷に仕えていたようです

服部半蔵が7歳の時、父・服部保長は服部半蔵を出家させました。ところが、半蔵は3年で出家を嫌がってしまい寺を脱走。これに父は激怒し、親子の縁を切ってしまいました。

徳川家康
徳川家康

子どもの1人出家すれば、一族は仏から救われるという言い伝えがあるんじゃ

五男じゃから出家させられたのかもしれんな

孤独になった服部半蔵は4人の兄弟の援助を受けながら暮らしました。その間の消息は不明です。その後、徳川家康(松本潤)に従って上ノ郷城攻めで初陣を飾り、徳川家康の家臣となりました。

ひろ
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家康は半蔵を見た時、「目つきが只者じゃない」と思ったそうです

服部半蔵は武士

その後も、服部半蔵は徳川家康に仕えて、合戦に参加し武功をあげました。このことで徳川家康からの信頼を獲得しています。

徳川家康
徳川家康

合戦での服部半蔵の槍裁きはすさまじく

鬼半蔵」といわれたんじゃ

武田信玄(阿部寛)が上洛のため、徳川領に侵攻してきたことにより起こった三方ヶ原の戦いでは、一番槍の功績を挙げています。さらに伊賀衆をまとめる身分となり、服部半蔵の名がさらに知れ渡るようになりました。

ひろ
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伊賀衆をまとめたから

伊賀忍者と思われるようになったんですね

また、徳川家康の長男・松平信康(細田佳奈多)と正室の瀬名・築山殿(有村架純)が織田信長(岡田准一)から、「武田家と内通しているのではないか」という嫌疑をかけられてしまいます。徳川家康は重臣の酒井忠次・左衛門尉(大森南朋)を通じて織田信長に弁明しましたが、聞き入れられずに切腹を命じされました。このとき、松平信康の切腹の介錯を務めることになったのが服部半蔵でした。

服部半蔵は「三代相恩の主に刃は向けられない」と涙を流しながら徳川家康に訴えたといいます。徳川家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と言い、服部半蔵をさらに評価したといいます。

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「三代相恩の主の御首に刀は当てられぬ」という言葉は渋川四郎右衛門という元々松平信康の介錯を務めるはずであった者の言葉であったとも言われています

服部半蔵と伊賀越え

本能寺の変により織田信長が亡くなると、各地で反乱が勃発。このとき主君である徳川家康は少数の家臣だけを連れて京都から少し離れた堺(大阪府)にいたため、非常に危険な状況でした。徳川家康は明智光秀の軍勢に出くわさずに、本拠地の三河(愛知県)に帰るため「伊賀越え」を決行しました。

ひろ
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徳川家康はもうだめと思ったのか切腹しようとしたそうです

しかし、本多忠勝榊原康政などの家臣に諌められて伊賀越えを決行しました

徳川家康は伊賀を知り尽くした服部半蔵を呼び出します。一行は何度も落武者狩りの危機に遭いましたが、服部半蔵の活躍によりなんとか三河に帰国することに成功しました。

徳川家康
徳川家康

伊賀越えの後は天正壬午の乱でも

服部半蔵は活躍したんじゃよ

服部半蔵の後半生

豊臣秀吉(ムロツヨシ)が全国統一するために、北条家の守る小田原城に向けて侵攻しました。小田原城は武田信玄でも上杉謙信でも落とせない強固な城ではありましたが、豊臣秀吉は大軍で攻め込んだために落城。

豊臣秀吉は全国統一を成し遂げると、徳川家康を北条家が治めていた領土への転封となりました。その際に、服部半蔵は遠江(静岡県)に知行を与えられ、伊賀同心200騎同心給8000石を与えられました。

その後、服部半蔵は父・服部保長や祖先が忍者・忍びであったことから、忍者を統率する役目を命じられます。そのため、服部半蔵は忍者というイメージがついたのではないでしょうか?

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伊賀忍者の統率を任されましたが

なにかと家来たちと諍いが耐えなかったようです

服部半蔵の子孫

服部半蔵は1597年に亡くなりました。その後は嫡男の服部正就が引き継ぎ、3代目服部半蔵となりました。ところが、服部正就は伊賀同心をうまく扱えず、江戸幕府から禁じられていた夜間での無断外出などを行ったために改易されてしまいます

しかし、大坂の陣で戦功を挙げて汚名を返上したいと考えて、徳川家康の六男・松平忠輝の陣に加えられました。服部正就は激しい戦となった天王寺口の戦いで家臣をすべて失い、自らも討ち死にしました。

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天王寺口の戦いは大坂方の真田幸村の活躍によって

徳川軍は多くの兵を失いました

その後には服部正就の弟・服部正重が後をついで桑名藩主・松平定綱2000石で召し抱えられました。以降、服部家は桑名藩の家老として存続しています。

徳川家康
徳川家康

桑名藩(三重県)では正重の子孫の家を「大服部家

正就の子孫の家を「小服部家」と呼び

代々桑名藩を支えたそうじゃ

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服部半蔵の子孫は現在も続いており

三重県で和菓子屋を経営されています

まとめ

服部半蔵徳川家康に仕えた「徳川十六神将」として天下に知れ渡りました。服部半蔵は伊賀忍者として有名ですが、生まれは伊賀ではありません。また忍者ではなく、父の代までが忍者であったという説が濃厚です。

ひろ
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服部半蔵の名前は「忍者ハットリくん」で一躍有名になったのかもしれません

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