
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する於愛・西郷局は
広瀬アリスさんが演じている徳川家康最愛の側室ですね

於愛は瀬名が居なくなったわしの心の隙間を埋めてくれたんじゃ

於愛の方は徳川秀忠の生母でもありますね
於愛は徳川家康の側室となるまでどのような生涯を送っていたんでしょうか?
於愛・西郷局の年表


於愛・西郷局の相関図


於愛・西郷局の誕生
於愛・西郷局(広瀬アリス)は1552年(または1561年)に遠江(静岡県)に戸塚忠春という武士のもとで誕生しました。戸塚忠春は今川家に仕えており、母方の三河西郷氏は月ヶ谷城を本拠地とする国衆でした。


戸塚忠春は於愛の方が2歳くらいのときに亡くなったといいます
当時、東海地方では今川義元(野村萬斎)が強大な権力を握っていました。しかし、1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、三河西郷氏は三河の松平家(徳川)に従属するようになります。


桶狭間の戦いは織田信長だけでなく
周辺の武将に大きな影響を与えた戦だったんじゃ
於愛・西郷局は前半生
父・戸塚忠春を失った母は諸説ありますが、伊賀(三重県)の服部平太夫正尚と再婚したといいます。祖父・西郷正勝や服部一族に養育されて成長した於愛は正室に先立たれていた西郷義勝と結婚。1男1女を儲けたといいます。


西郷義勝は1人目の夫という説もあります
しかし、武田信玄(阿部寛)が三河(愛知県)への侵攻を開始。武田家臣の秋山虎繁と相対した際に西郷義勝は戦死してしまいます。於愛と西郷義勝との間に生まれた男児は幼かったために家督を継ぐことができず、於愛は叔父の西郷清員のもとに身を寄せました。


於愛は再び独り身になってしまうんですね
於愛・西郷局と徳川家康
於愛は叔父・西郷清員のもとでひっそりと暮らしていましたが、やがて美貌や聡明さから徳川家康(松本潤)の目にとまります。そして1578年、西郷清員の養女となることで徳川家康の側室となりました。
徳川家康の側室となった於愛は1579年に徳川秀忠を出産し、1580年には松平忠吉を出産しています。


築山事件が起こった頃に生まれた子ですね
そして、1589年に38歳で生涯を閉じました。


於愛の方の死因は
瀬名・築山の待女たちが毒殺したとも噂されています
於愛・西郷局の子孫
於愛は1589年に亡くなりましたが、その子孫は徳川秀忠によって受け継がれました。於愛は徳川家康から信頼され、家臣や待女らに慕われていたため、孫にあたる徳川家光から正一位が送られています。
於愛と西郷義勝との間に生まれた子は紀伊藩主の徳川頼宣付けになるなど、徳川秀忠の代で優遇されていました。しかし、秀忠が亡くなると、安房(千葉県)で大名となったのが最高で徳川綱吉の時代には5000石の旗本となっています。


ちなみに1石は5万円程度です
まとめ
於愛・西郷局は三河の武士の家に生まれ、西郷義勝と結婚し1男1女に恵まれました。しかし、戦で夫を亡くすと叔父・西郷清員に匿われてひっそりと暮らしていました。そのときに美貌や聡明さから徳川家康に気に入られ、側室となります。徳川家康から気に入られていたのか徳川秀忠と松平忠吉を出産しました。
また於愛は強度の近眼であったため、盲目の女性に同情して、生活を保護していました。そのため於愛が亡くなると、大勢の盲目の女性が連日、寺門の前で於愛の死を追悼したといいます。


どうする家康でも於愛は近眼の女性として描かれていますね