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三法師は清州会議の後、どう過ごした?

戦国小話
ひろ
ひろ

三法師といえば、清洲会議豊臣秀吉によって担ぎあげられたことが有名な人物やな

徳川家康
徳川家康

信長殿嫡孫であったからなー

しかし、その後は周囲の大名の傀儡とされる運命だったんじゃー

ひろ
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つらい運命やなー

それでは三法師の短い生涯をみていこう!

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三法師の年表

ひろ
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清州会議で織田家の家督を継いだけど

その後、織田信雄のものになっていたとは知らなかったなー

徳川家康
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なにもかも、秀吉殿の思惑通りじゃ

それにしても信雄殿はどうしようもない愚将じゃったわい

三法師。祖父・信長に似て派手好きであったといわれている。(聖衆来迎寺蔵)

三法師の相関図

ひろ
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三法師は周りの大人に翻弄された生涯だったなー

そんな中、織田家の重臣だった丹羽長秀のことを信頼していたみたい

徳川家康
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丹羽長秀は「米五郎左」といわれ、内政で手腕を奮った武将じゃ

織田信長。亡くなるかなり前から信忠に家督を譲っていた。(三宝寺)

三法師の誕生

三法師さんぼうしは1580年、織田信忠の長男として生まれました。祖父は天下人・織田信長であり、諸説ありますが、母は武田信玄の娘・松姫。つまり2人の戦国最強の血をひく武将が誕生しました。

ひろ
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織田信長武田信玄の孫ってすごい!

周囲から相当期待されていただろうなー

武田信玄。信長は信玄を恐れた。友好関係を結ぶため、政略結婚を行った。(高野山持明院蔵)

清洲会議から始まる転落人生!!

1582年、織田家の重臣・明智光秀本能寺の変を起こすと、祖父・織田信長が亡くなってしまいました。さらに、本能寺の近くに宿泊していた父・織田信忠も明智の手勢により亡くなってしまいます

ひろ
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本能寺の変のとき、三法師は父の居城・岐阜城にいたみたい

本能寺の変後、織田家の家臣たちは信長の後継者を決めるべく清洲会議を開きました。重臣の柴田勝家が信長の三男・信孝を推薦するも、明智光秀を討ち取った豊臣秀吉が三法師を推薦したため、三法師が織田家の家督を継ぐことになりました

このとき、三法師はわずか3歳でした。そのため周りの武将の操り人形のような状態。近江(滋賀県)に移住することが決まっていましたが、叔父・織田信孝の命により、岐阜城に留められます。しかし、豊臣秀吉が「すぐに三法師様を出せ」と要求し、無事にいざこざは終息しています

徳川家康
徳川家康

このことで、秀吉殿と信孝の関係が悪くなって賤ヶ岳の戦いが起こったんじゃなー

周囲の大人に振り回されながらも、三法師は9歳の時に元服。織田秀信と名乗ります。わずか9歳にして官位も賜り、13歳のときには城持ち大名となりました。

ひろ
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「秀信」という名前には秀吉の思惑が込められているなー

秀吉が織田家を完全に掌握したことがわかるよ

清州会議。豊臣秀吉が三法師を抱きかかえ、諸大名たちをひれ伏させている場面。(絵本太閤記)

運に見離され、、、

秀吉が小田原征伐を終え天下統一を成し遂げ、三法師はキリスト教に傾倒するようになります。とはいえ、秀吉がバテレン追放令を発布していたため、公には信仰してしませんでしたが、洗礼名を「ペトロ」と名乗って入信しています。

ひろ
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三法師はキリシタンになったけど

織田家ゆかりの寺院は保護したみたい

秀吉が亡くなると、徳川家康に従って会津征伐に出陣しようとしていました。ところが石田三成に「美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の2カ国を与える」と要請されて西軍の武将となります。

ひろ
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三法師が西軍についたことで、諸大名も西軍に流れたみたい

やっぱり信長のやなー

関ヶ原の戦いの前哨戦として岐阜城の戦いが勃発。福島正則池田輝政などの東軍の武将から岐阜城を攻め込まれ、わずか2日たらずで陥落。家臣の多くは切腹して亡くなり、三法師も一緒に自害しようとしていたところ、敵将の福島正則がとめに入ります。そして、「自分の手柄と引き換えにでもいいから秀信の命を助けて欲しい」と嘆願しました。

徳川家康
徳川家康

福島正則は三法師の戦いぶりをみて

さすがは信長の孫」と感心したそうじゃ

合戦後、領地を没収され剃髪して出家し、高野山に送られることになります。ところが、高野山はかつて祖父・織田信長が攻め込んだ山だったため、高野山側は三法師の入山を拒否。その後、なんとか入山に成功しますが、5年後には下山してすぐに亡くなってしまいます

徳川家康
徳川家康

高野山での生活がつらくて、自害してしもうたのかもしれんなー