織田信長は戦国の魔王といわれて
恐ろしくて怖い武将のイメージがありますね
実際はそうでもなくて
優しい方なんじゃよ
そうなの?
今回は織田信長の優しい一面に注目してみましょう!
裏切り者を許した!?
織田信長には裏切り者を一切許さず、徹底的に討伐するイメージがあるかもしれない。しかし実際には信長は家臣のことをあまりにも信頼しすぎてしまう節があった。そのせいで、荒木村重や松永久秀などの家臣に裏切られてしまう。
信長があんまりにも家臣を信頼するせいで
本能寺の変がおきてしまったのかも
また信長が若い頃、後継ぎ争いのために弟の織田信勝(信行)と対立していた。その時に有力家臣の柴田勝家などは弟の信勝に従って、信長と一戦を交えた。最終的に信長の勝利でこの合戦は幕を閉じるが、信勝とその家臣はお咎めなしに許された。
信勝がもう一度謀反を起こしたときには
信勝とその家臣は全滅させられているけど、、、
魔王の心配り
堺の商人・津田宗及は信長へ高価なお盆を送った。後日、信長は宗及を城の茶室に招いた。その茶室には立派な茶器が飾られており、その中に宗及が送ったお盆も飾られていたという。
天下人まで上り詰められる人は
人への気配りができますよねー
ねねを気遣って豊臣秀吉に激怒!?
豊臣秀吉が織田信長の家臣だった頃、秀吉は子どもを産まない正室のねねに対して辛くあたり、浮気を繰り返していた。ねねは秀吉の態度に苦しみ、思わず信長に相談した。信長はねねに対して非常に細やかな思いやりに溢れた書状を送った。
この間、あなたにも会いましたが、以前にもまして綺麗になっているではありませんか。ハゲネズミがあなたの不満を色々言うみたいですが、言語道断!
あなた以上の奥さんをハゲネズミがもらうことなどないのだから、堂々としていればそれでよいのです。この手紙を秀吉にもみせてやりなさい。
とねねを励ました。
信長はフェミニストだったのかー
山中の猿
美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の国境付近の村に「山中の猿」と呼ばれている体に障害の男がいた。京都と美濃をよく行き来していた信長は街道沿いで暮らしていたこの男をよく見かけては哀れに思っていたという。
1575年の上洛途中、信長はこの村を訪れては、木綿20反を村人に与え次のようにいった。「あの者(山中の猿)に小屋を建ててやり、飢えて亡くなったりしないように、米を与えてやるように」と村人に頼んだという。この信長の行動に村人たちは皆涙を流して喜んだ。
庶民にもやさしい
楽市楽座も領民思いの政策ですね
感謝の意を示す
幼少の頃の織田信長を育てあげた平手政秀という武将がいる。信長の父・織田信秀の代から織田家に仕えており、信秀の死後に自害してしまう。
自害の理由ははっきりとはしていないが、「うつけ者」といわれた信長の奇行を自らの死をもって諌めるため、織田家の重臣・柴田勝家と対立したためとも言われている。信長は政秀の死を悼んで、政秀寺という寺を建立した。
信長も自身を指導してくれた人を思いやることができる武将ですね
まとめ
織田信長の人物像は近年の研究により次第に変わっている。信長の残虐で苛烈なイメージが定着したのは江戸時代であるとされる。徳川家康の長男が信長に追い詰められて自害したことから、幕府は信長を家康さえも従わせる絶対的権力者であったと吹聴したことが原因である。
人間は多面的な存在であるため、一方向からだけみてその人の性格を決めてはならないことを織田信長は後世の私たちに示しているのかも知れない。
じつは「わしは信長のようにあまくはないぞ」と
秀吉は自身の家臣に伝えてたとか