武将たちは当主になりたいから
全国各地でお家騒動が勃発してしまった
家督争いは家を滅ぼす可能性のある毒じゃ
今回は戦国時代に起きた大きなお家騒動を4つ紹介していきます!
上杉謙信最大のミス
1578年、越後の龍と称された上杉謙信が織田信長との直接対決を前に亡くなった。暗殺説も囁かれているが、謙信が大酒飲みであったことから、脳出血が原因と言われている。ところで、謙信は結婚していないため実の子がおらず、遺言もなかったことから養子の景勝と景虎の間で家督争いが勃発した。
謙信の最大の汚点は後継者を決めていなかったことだな
養子の上杉景勝は謙信の姉の子であり、謙信の甥にあたる。また、上杉景虎は北条家から迎えられた養子ではあったが、謙信からの寵愛を受けていた。
景勝は重臣や隣国の武田勝頼の協力を得ていた。一方、景虎には本庄秀綱ら有力武将と北条家のバックアップがあった。
上杉家の家督争いに武田と北条が絡んでいるのか
武田の援助を受けた景勝方は優勢であり、上杉家の本拠地・春日山城を占拠した。景虎は先代の上杉憲政の居館であった御館に立て籠った。ところが、景勝方の総攻撃により、景虎は耐えきれなくなり討ち取られた。その後、景虎方についた武将も次々と降伏し、3年近く続いたお家騒動が集結した。
景勝は勝利したが、越後は荒れてしまい
家臣には十分な報酬を与えられなかったんじゃ
今川義元のルーツ
今川家の当主であった今川氏親は北条家と協力して武田家と交戦中であった。ところが、1536年に亡くなってしまう。その後を継いだ長男の氏輝とその弟もすぐに亡くなってしまった。
今川家の男性が戦でもないのに
次々に亡くなっていくのは不思議だな
また、氏輝には2人の弟がいた。1人は遍照光にいる玄広恵探と善得寺の梅岳承芳である。恵探の方が年長であったが、側室の子であったため、年少ではあるが正室の子である承芳の方に家督を譲るべきと家中で意見が割れた。
恵探は家督相続を主張したが、氏親の正室で承芳の母は承芳に家督を継がせるように重臣たちに働きかけた。幼少の頃から承芳を支えている太原雪斎は次々に今川家の重臣を引き込むことに成功した。
恵探は野望を捨てきれず花倉城に立て篭もった。承芳の軍は城に押し寄せて包囲。恵探は完全に孤立してしまい、自害して果てました。この花倉の乱で勝利した梅岳承芳こそ、今川義元である。
義元を支えた太原雪斎は徳川家康の家庭教師を務めたこともある名将!
家臣が主君を斬る!?
大友義鑑は後継者を大友宗麟に決めていた。ところが、側室の子である三男の塩市丸を寵愛し、後継者にしたいと考えるようになり、宗麟を廃嫡しようとしていた。そのため、大友家は宗麟派と塩市丸派の二手に分かれてしまった。
完全に大友義鑑が悪いのー
宗麟はこのような父からの仕打ちを受けて心を荒らしてしまい、義鑑によって幽閉されてしまう。これを好機とみた塩市丸の母は入田親誠と共謀して宗麟派の重臣を殺害した。他の宗麟派の重臣たちは自分達の身も危ないと考え、大友館の2階で寝ていた義鑑、塩市丸、その生母を襲撃した。塩市丸とその母はすぐに亡くなり、義鑑は重傷を負ってしまった。
義鑑は宗麟や大友家の重臣を呼びつけ、今までの仕打ちを詫びて、家督相続を言い渡して亡くなった。
館の2階で起きた事件だから二階崩れの変というのか
戦国時代最大の家督争い
室町幕府8代目将軍・足利義政は政治に関心がなく、芸術文化に興味があった。また、子どももいなかったため、次期将軍を弟の義視に指名して引退しようとしていた。
足利義政といえば、慈照寺銀閣!
ところが、妻の日野富子が義尚を出産。富子は自分の子を将軍にしたいと考えて、幕臣の山名宗全を味方につけた。対する義視も自分が将軍になりたいと考え、室町幕府ナンバー2の細川勝元を味方に引き込んだ。さらにこの争いに便乗して、有力大名の畠山家と斯波家も参戦した。両軍合わせて実に27万人もの兵が京都に終結した。これを応仁の乱という。
義政は政治に興味がないし
富子には頭があがらないからこんなにも大きな戦いとなってしまったのか、、、
応仁の乱はすぐには終わらず、何年も争いが続いた。総大将である、細川政元と山名宗全が亡くなっても戦は続けられた。そのせいで、京都の街はほとんど焼け野原になってしまったという。結局、義政が将軍職を義尚に譲り、西軍の有力武将・大内政弘が撤退したため、11年間続いた応仁の乱は幕を閉じた。
この戦いで幕府の権威は地に落ちて
戦国時代に突入したんじゃ
まとめ
戦国時代には様々な家督争いが勃発していた。お家騒動はその大小に関わらずお家を滅ぼしかねない争いである。そのため、当主はお家を安泰とするために、側室の子はすぐに養子に出した。この方法でお家を強くしたのが毛利元就である。
江戸時代では、お家騒動を起こしたら改易させられるし気をつけないと