ひどすぎる!!戦国時代の悲惨な籠城戦5選!!

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ひろ
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戦国時代にはたくさんの城攻めが行われたけど

中には現代では考えられないほど悲惨な合戦も行われたとか

徳川家康
徳川家康

城を陥落させるのは簡単なことではないからのー

ひろ
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今回は戦国時代に起こった悲惨な籠城戦を5つ紹介していきます!

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長島一向一揆

織田信長伊勢長島(三重県)を中心とする浄土真宗らが起こした一向一揆は激しいものでした。長島は信長の生まれ故郷である尾張(愛知県)の近くでありながら、石山本願寺と並んで一向一揆の拠点でした。信長は2度にわたって大軍を送り込みましたが、一揆勢の激しい反撃を受けて撤退を余儀なくされています。また、長島にはいくつもの川が流れ込んで島が点在していたため、織田軍は進軍しづらかったようです。

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一揆勢の士気の高さと独特の地形のせいで信長は苦戦したのか

信長はついに一揆を殲滅するべく、10万もの大軍を動員。やがて陸と海から織田軍の総攻撃が開始されます。水軍大将の九鬼嘉隆は海から一揆勢の砦を攻め落としてゆきました。城を失った一揆勢は残った5つの城に逃げ込みます。ところが信長は追撃の手を緩めず、大鳥居城では逃げ出そうとしていた一揆勢を虐殺、兵糧攻めを行っていた長島城では餓死者が続出しました。また、屋長島と中江の2つの城には逃げられないように柵で囲った上で火を放ちました。城にいた城兵、その妻子も含めて2万人以上が焼け死んでしまったといいます。

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燃え盛る火の中から助けを求める人の声で埋め尽くされたとか

徳川家康
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この戦いでようやく長島一向一揆は消滅したんじゃ

長島一向一揆。織田信長を苦しめた勢力の一つ。(太平記長嶋合戦)

三木の干し殺し

豊臣秀吉織田信長の家臣だった頃、織田家に味方していた別所長治は秀吉と不和となり毛利家と結託して信長に反旗を翻しました。別所長治が居城とした三木城は播磨(兵庫県)でも最大級の城であったため、周辺の城も長治に寝返ってしまいます。大軍で陥落させることは難しいと考えた秀吉は城を包囲する作戦に打って出ました。

徳川家康
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秀吉の軍師・竹中半兵衛の出番じゃな

秀吉はまず三木城を取り囲むように城を構築し、三木城への補給ルートを遮断。また、三木城の支城へ軍を派遣して次々と陥落させてゆきました。こうして補給ルートが完全に遮断され、三木城は陸の孤島と化してしまいます。別所長治は毛利方に救援要請を試みましたが、織田家に下っていた宇喜多直家に拒まれて援軍を出すことはできませんでした。

ひろ
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三木城は完全に孤立してしまったのか

城への補給ルートが完全に断たれてしまった三木城では兵糧が底をつき、至るところに餓死者が溢れかえっていました。2年もの籠城戦の末、長治は城兵の命と引き換えに降伏して自害。ところが、開城と同時にどさくさに紛れて豊臣軍は解放された城兵を次々と殺戮したといいます。

ひろ
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合戦後の乱取りは恐ろしい、、、

別所長治。農民あがりの秀吉に頭を下げたくなく
プライドが邪魔して2年間も籠城したという。
 (兵庫県立歴史博物館蔵)

鳥取城飢え殺し

三木城に続いて豊臣秀吉鳥取城でも残酷な籠城戦を敢行しました。鳥取城の城主・山名豊国は秀吉に従おうとすると、家臣に追い出されていました。そこで、鳥取城の家臣たちは毛利家の吉川経家を城主として迎え入れました。

ひろ
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元城主の山名豊国は世渡り上手で79歳まで長生きしたよ

経家は城主となると、城内の兵糧を見て回るも米が不足していることに気づきました。ところが、近隣の商店のどこを探しても米が見当りません。それもそのはず、秀吉が先に近隣の米を高値で買い取っていたです。

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中には、金に目が眩んだ城兵が城の米を売ったとか

豊臣軍は鳥取城に侵攻。城内の兵糧を早く減らすため、付近の住民も城へ追い込みました。そして、秀吉は周囲に城を築いて完全に包囲。2千人以上もの人が城に篭っていたため、みるみるうちに餓死者が増え始めてしまいます。悲惨な状況を見かねて城から逃げたそうとするものなら、豊臣軍に捕らえられました。兵糧が亡くなった城内では馬や雑草など全て食べ尽くされ、餓死者が続出。状況を見かねた吉川経家は城兵の命と引き換えに降伏して自害しました。

徳川家康
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人が人を喰らう恐ろしい光景がそこにはあったんじゃ

鳥取城飢え殺し。城内は地獄絵図そのものだったという。

撫で斬り!?小手森城の戦い

伊達政宗が蘆名、岩城、二階堂といった諸勢力に囲まれていた頃、大内定綱は蘆名家あしなけや佐竹家などに従属しながら生き残っていたものの、今後は伊達家に従いたいと政宗に申しでてきました。政宗はこれを大いに喜び屋敷まで与えていました。

徳川家康
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政宗がまだ東北の小勢力であったときの話じゃ

ところが、定綱が突如姿を見せなくなってしまいました。政宗が不思議に思って使者を派遣すると定綱は「伊達に味方するつもりはない」と蘆名家に通じていることを表明したのです。これに激怒した政宗は大軍を動員して大内領へ侵攻。小手森城は一挙に包囲され、すぐに降伏を申し出ましたが、政宗の怒りは収まらず城兵や女子供までもが斬り殺されてしまったのです

ひろ
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政宗って結構残虐、、、

伊達政宗。織田信長のことを尊敬していたのか、共通点が多い。
(東福寺霊源院蔵)

豊臣秀吉最後の戦い・九戸城の戦い

豊臣秀吉小田原征伐を終え全国統一目前という時、九戸城の戦いが起こりました。九戸城の城主であった九戸政実くのへまさざねは青森県周辺で一大勢力を誇っていた南部家の一族です。南部家は南部晴政の代に最盛期を迎えていましたが、晴政の死により家中に乱れが生じていました。九戸政実は弟の実親を当主に据えようとするも南部信直が後継者として選ばれてしまいます。また、信直は小田原征伐後に豊臣秀吉の元へ参陣し、南部家の棟梁であることが認められました。

このことに不満を抱いた政実はついに信直に反旗を翻しました。政実は5千の兵で挙兵し、周囲の城を攻め始めます。政実は武勇に長けていたため、信直方は苦戦に陥ってしまいます。そこで、信直は秀吉のもとへ援軍を要請し、豊臣秀次を総大将とする奥州仕置軍が送り込まれました

ひろ
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東北の一武将のもとに関白の軍が送り込まれるとは

豊臣軍は次々と城を陥落させ、ついに6万もの大軍で九戸城を包囲しました。ところが、九戸城は崖の上にそびえたった城であったため、なかなか落城しません。そのため、豊臣方九戸方の間で開城すれば助命しようという和睦が執り行われました。政実は豊臣軍相手に互角に戦えたことに満足していたため、これを了承して城を出ました。ところが、これは罠でした。政実はすぐに捕らえられ、九戸城内にいたものは次々に殺されてしまいました。

徳川家康
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この後九戸城には火がかけられて

3日間も燃え続けたんじゃ

九戸城。この戦いで豊臣秀吉の合戦は集結した。
(wikipedia)

まとめ

今回紹介の籠城戦の多くは豊臣秀吉によるものです。秀吉は自軍の損害を最小限にするために積極的に兵糧攻めを行ったことで、このような悲惨な籠城戦が生まれてしまったのでしょう。

ひろ
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それとも秀吉は残虐な人物だったのか?

豊臣秀吉。経済力や根回しを生かして
日本での戦いではほとんど負けなかった。
(高台寺)

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