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戦国時代にあらわれた海賊大名!?九鬼嘉隆とは?

戦国武将
ひろ
ひろ

戦国時代には各地で戦国大名があらわれたけど、同時に海賊も存在したみたい

徳川家康
徳川家康

海賊といえば、毛利家に仕えた村上水軍か、織田家や豊臣家に仕えた九鬼家が有名じゃ

ひろ
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今回は織田信長の水軍として活躍した九鬼嘉隆についてみていこう!

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九鬼嘉隆の年表

ひろ
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幼いころは周辺勢力に攻め込まれて苦しい思いをしていたのか

徳川家康
徳川家康

なんとか生き延びて織田家の家臣となったわけじゃな

九鬼嘉隆。茶道に造詣深く、津田宗及の茶会に参加していた。(常安寺所蔵)

九鬼嘉隆の相関図

ひろ
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村上水軍との戦いは同じ海賊大名同士でいい戦いだっただろうな

徳川家康
徳川家康

一度戦に敗れても信長殿がもう一度チャンスを与えたとは、相当信頼されておったんじゃろな

村上景親。瀬戸内海を中心に勢力を広げ、毛利家に仕えた。(村上水軍博物館蔵)

九鬼嘉隆の誕生

九鬼嘉隆くきよしたかは1542年、志摩(三重県)に九鬼定隆の三男として生まれました。嘉隆が生まれた頃、九鬼家は一介の地頭にすぎませんでしたが、九鬼家は伊勢の海をまもる水軍として活躍していました

ひろ
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水軍は海上で人の動きを監視する役割で

海賊は海上で略奪行為を行う集団やなー

北畠具教。朝廷とも繋がりのある名門家に生まれたが、織田信雄によって滅ぼされた。(伊勢吉田文庫蔵)

波瀾万丈の生涯!!

1560年、九鬼家以外の志摩の地頭が一斉に九鬼家の居城に攻め込んできます。しかも、伊勢(三重県)で勢力を奮っていた北畠具教きたばたけとものりの援助を受けていました。これにより、当主である兄・浄隆が討ち死。嘉隆は甥の澄隆を当主として九鬼家を存続させようとしましたが、再び周辺勢力に攻め込まれてしまいます。その結果、嘉隆は三河(愛知県)へ逃亡

徳川家康
徳川家康

当主が交代するときは勢力が弱まるときだから、周辺勢力は攻め込んだんじゃろ

三河へ逃亡した嘉隆は織田信長の重臣・滝川一益に取り立てられます。そして信長から水軍を任せられると、志摩の攻略を行い、次々と敵対勢力を屈服させていきます。嘉隆は織田家に仕えることで、志摩平定を成し遂げました。

ひろ
ひろ

嘉隆は奪われた志摩の海を取り戻し、

しかも信長から志摩の統治と九鬼家の家督相続を認められたんだよな

嘉隆は織田軍の水軍として本格的に組み込まれると、長島一向一揆の鎮圧に出陣。さらに、毛利家との木津川口の戦いにも参陣しています。ところが、毛利家には村上水軍という瀬戸内海の潮を知り尽くした部隊がいたため、九鬼水軍は苦戦してしまいます。そこで、信長は莫大な資金を投じて大きな鉄甲船を造船し、毛利軍を撃退することに成功します。

ひろ
ひろ

鉄甲船は鉄に覆われた大きな船だったみたいだけど、

その存在は疑われているよ

九鬼水軍。嘉隆が朝鮮出兵の際に造船した船。(wikipedia)

豊臣軍の司令官へ

織田信長が本能寺の変で亡くなると、嘉隆は信長の次男・織田信雄に仕えましたが、小牧長久手の戦い以降、豊臣秀吉に仕えています。そして秀吉に仕えて、九州攻め小田原攻めに出陣しました。

ひろ
ひろ

信雄が愚将だったから秀吉に寝返ったんかな

徳川家康
徳川家康

秀吉殿が大坂城を築城する際には、嘉隆は海上での石垣の運搬で活躍したぞ

秀吉の命で朝鮮へ出陣すると、九州と朝鮮半島の間の海上で活躍。九鬼軍ははじめこそ優勢でしたが、朝鮮軍の大将が李舜臣りしゅんしんとなると、一気に形勢が逆転。結局、朝鮮軍の強大な船に阻まれてしまい、日本軍の侵攻は失敗してしまいます。

徳川家康
徳川家康

日本軍は結束力が弱くて、各部隊が勝手な行動して負けてしもうたんじゃ

豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康が政治の実権を握り始めると、関ヶ原の戦いが勃発。嘉隆は秀吉の恩を忘れず、西軍に属しましたが、長男・守隆は東軍の将となります。そのため、守隆は徳川家に仕えていることを示すため、嘉隆の城や船を攻撃せざるを得ませんでした。

ひろ
ひろ

これは親兄弟で東軍、西軍に割れた真田親子と同じ状況やな

関ヶ原の戦いで、西軍が敗れてしまったため、嘉隆は鳥羽まで敗走。九鬼家の行く末を不安に思った家臣に切腹するように促され、嘉隆は自害しました。

亀甲船。朝鮮軍が用いた船。日本軍はこの強大な船に苦しめられた。(wikipedia)

まとめ

九鬼嘉隆は志摩の一介の地頭にすぎませんでしたが、織田信長に取り立てられて大名にまで出世を果たします。そして朝鮮出兵などで活躍し、天下に名を轟かせました。

ひろ
ひろ

嘉隆は関ヶ原の戦いの後、家臣に切腹するよう進言されて自害したけど

その後、父の切腹を知った守隆は怒り悲しんで切腹するよう進言した家臣を処刑してしまったんだ

答志島。嘉隆の首が眠っている。(伊勢志摩観光ナビ

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