織田信雄は魔王織田信長の次男坊だけど
器量が小さかったことで有名やな
信雄殿の身勝手ぶりに呆れるわい
それでは織田信雄が本当に愚将なのかみていこう!!
織田信雄とは?
織田信雄は織田信長の次男として生まれました。信長の命により、伊勢侵攻を行い北畠家を滅ぼします。
本能寺の変後は、豊臣秀吉に織田家の実権を握られてしまいます。そこで有力者である徳川家康を頼って小牧長久手の戦いを起こします。結局、秀吉から信雄へ和睦を申し入れられて、停戦しました。
わしは信雄殿のために挙兵したのに、
信雄殿が勝手に秀吉殿と和睦するから合戦がおわったんじゃ
戦をするのもただではないというのに
秀吉が天下をとると、秀吉からけむたがられながらも大和1万7千石の大名として存続。関ヶ原の戦いでは、息子秀雄が西軍についたため、改易されてしまいます。
秀吉も信雄は愚将だから
処刑するほどでもないと考えて放置していたんやろなー
愚将エピソード
その1
信雄は信長に無断で伊賀へ出兵。ところが結果は惨敗で、重臣柘植保重を討ち死にするという結果。これを知った信長は激怒し、「親子の縁を切る」と信雄を叱責しました。
信雄は信長にいいところをみせたかったんやろなー
その2
本能寺の変が起こったときには、混乱してしまったのか信長が築いた安土城の本丸を放火してしまいます。
信雄が本当に放火したのかは諸説あるよ
秀吉殿は織田政権を払拭するため
残っていた安土城の二の丸を取り壊したじゃ
その3
豊臣秀吉が北条家を滅ぼして天下統一を成し遂げると諸大名に対して全国配置換えを行いました。信雄は尾張(愛知県)から家康の旧領への移封命令をうけます。ところが、先祖代々の尾張を離れたくないと駄々をこねて秀吉の怒りをかい、改易されてしまいます。
出羽(秋田県)へと追放されていたけど
家康さんが秀吉に仲介したことで、
大名に返り咲いたみたい
その4
関ヶ原の戦い後、従妹であった淀殿に引き取られ、信雄は大坂城で余生を過ごしていました。ところが、信雄は豊臣家がじきに滅びてしまうと考えて徳川家康と内通。徳川家に豊臣家の機密情報をもらして、家康に媚を売っていました。
このことを知らない淀殿は従兄である信雄を信頼しており、織田家の血筋をひいている信雄を大坂の陣の総大将にしようとしました。しかし、信雄は争いに巻き込まれたくないと拒否して大坂城を出奔。
淀殿の信頼をないがしろにした行動やなー
そして大坂の陣が終わると、豊臣の内部情報を送っていた功績が認められ、信雄は5万石の大名へと復帰を果たしました。
再び大名に復帰してからは
産業を推進したり、庭園を作ったりと、
大名として働いていたんじゃ
まとめ
織田信雄は愚将としられ、各大名からけむたがれていた武将でした。実力がないと思われていたことが功を奏したのか、余計な争いに巻き込まれずにすみ、子孫を現在にまで残しました。
織田家家臣の中では、「三介殿(信雄)のなさる事よ」と評して無能とみなしていたみたい