中国地方の大名清水宗治!!
毛利家に忠義を尽くして切腹したことで有名やなー
宗治の切腹には敵味方関係なく称賛したんじゃ
それでは、武士の切腹文化を作った清水宗治の生涯をみていこう!!
清水宗治の年表
1537年生まれってことは秀吉さんと同い年やな!
同年齢でも全く違う人生や
戦国時代は実力のあるものがのしあがれるからのー
年齢はあまり関係ないかもしれんな
清水宗治の相関図
宗治はもともと三村家に仕えていたけど、
三村家が滅亡したから、毛利家に仕えるようになったんやなー
そういうことじゃ
毛利家に仕えておったから、
わしと合戦することになったんじゃ
清水宗治の誕生
清水宗治は1537年、備中(岡山県)に清水宗則の次男として生まれました。宗治は兄宗知に代わって清水家の家督を継ぎます。もともと清水家は三村家の家臣であり、宗治は三村家の重臣石川久孝の娘を妻としていました。
毛利家に仕える
宗治の主君三村元親は毛利家と同盟を結んでいました。ところが、三村元親が宇喜多直家と対立するようになると、毛利家は三村家との同盟を破って、宇喜多直家と同盟を結びます。
そして毛利家は三村家を滅ぼし、備中高松城主であった石川久孝も討ち取ります。この争いの間に宗治は毛利家に寝返っており、備中高松城の城主になることに成功。
戦国時代では、自分の命のために優秀な主君へ鞍替えしないといけないなー
宗治は毛利家の小早川隆景のもとで働くようになります。宗治は上月城の戦いなどで武功をあげるなど活躍したため、隆景からの信頼を得ていました。
そんな中、勢力を強めていた織田信長が中国地方に侵攻。信長の命を受けた豊臣秀吉は中国地方各地の城を陥落させていきました。
織田軍の勢いはすごくて、
中国地方の城はどんどん陥落していったよ
毛利家に忠誠を尽くして切腹
秀吉が交渉しても、宗治は織田家へ寝返らず毛利家に従っていたため、秀吉は宗治の居城備中高松城を攻略することを決めます。ところが、備中高松城は周りを川や湖に囲まれた難攻不落の城であるため、なかなか落とすことはできません。
わしは交渉として宗治に「備中と備後(広島県)」の2カ国を提示したんじゃ
そこで秀吉の軍師黒田官兵衛は「水が多いのならもっと水を増やせばよい」と考えました。いわゆる水攻めです。こうして秀吉軍は土木工事を行なって川をせき止め、城へ水を流れ込ませました。
わしは現地の農民に高い金を払って工事をはやくすすめたんじゃよ
天下人だからできる、経済力にものをいわせた戦い方だ!
水攻めにより清水軍の士気は一気に下がり、落城寸前となります。秀吉はもう少しまてば、「宗治は降伏するだろう」と考えていたところ、京都では本能寺の変が起きていました。
信長の横死を知った秀吉は、宗治と急いで和平を結ぼうとします。何も知らない宗治は秀吉の和睦を受け入れ、城兵の解放のため、毛利家のため切腹しました。
宗治の切腹が後一日遅かったら、
毛利家も本能寺の変を知って事態は変わっていたかもしれないなー
まとめ
清水宗治は織田家に寝返らず、世話になった毛利家に忠義を尽くし、城兵を守るため自ら腹を切って亡くなりました。この宗治の潔い切腹により、毛利方だけでなく、豊臣方も宗治をたたえたといいます。
宗治の切腹以来、
「武士の切腹は美学」という風潮ができたみたい